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矢面に立つ

仕事の範囲が増えて、見える景色が広がるということは、同時に「見る」だけではとどまらず、矢面に立つということでもある。そこまで見えているからこそ、やる・やらないの責任が自分にある。

「なんでこうなってるんだろう」と疑問を呈したり、「こうしたらいいのにな」という提案をするのは組織にとって価値だ。価値なんだけど、見える景色が広がるとそれだけではすまなくなり、「なぜやらないのか」「なぜこうしないのか」という疑問をぶつけられる側に立つ。それは他者からぶつけられるということもあるけれど、それ以上に、自分がえぐられるような問いを、自分にぶつけ続けるということでもある。言い訳は効かない。自分の弱さや能力不足との戦いだ。必死で本を読んでも、必死で仕事しても追いつかない。至らなさや無力感に陥る。頭で考えていても、実行に移せていないことの多さにクラクラするし、「なんでこうなんですか」「どうしたらいいんですか」とインターン生に尋ねられる度に、自分の至らなさに申し訳なくなる。正直に「ごめん、わたしがここができていなくて」「一緒に考えてもらえないかな」と言う。至らなさに恥ずかしくなるけど、できている範囲のなかでやっていくしかないことを伝える。「自分がこの組織でこのポジションにいるよりも、よっぽど適任がいるはずだ」という気持ちに、何度もなる。だけど、ちがくて、やっぱり「ここにいる。つくりたい社会を、わたしがつくりたいからつくるんだ」という決意に舞い戻り、また矢面に立つ。

だけど、わたしはフリーランスになって、そしてD×Pという組織である程度矢面に立って仕事ができて、本当によかったと思っている。どうしてかというと、自己決定がいちばん自分を成長させてきたと思うから。未来を描く。責任もつ。決定をする。実行する。失敗したらそれも全部自分で被る。また決定する…。この繰り返しは、いちばん人を成長させると思う。「成長」というとすごくマッチョな響きになっちゃうからなんか嫌だけど、他に言葉が見当たらない。しいて言えば、これが「誰かの人生でなく自分の人生を生きる」ということなのかもしれない。

今年の春までは、自分の弱さや至らなさと向き合いまくるこの仕事を、他のだれかが担ってくれるなんて思っていなかった。でもいまは「この人たちは背負ってくれるかも」という気持ちと「でも結構しんどいけど大丈夫かな」という気持ちの半々でないまぜになっている。つい最近は、わたしがつくりたいファンドレイジングの未来の姿を話したら、その未来があまりに遠すぎたらしくてスタッフの一人をどん底に突き落としてしまったくらいだ。(即復帰してくれたのでとても助かったけれど。) スタッフ自身も「自分にも背負わせてくれ」という気持ちと「いややっぱり矢面には立てないかも」という気持ちのないまぜであるかもしれなかった。

この孤独をこの人たちも背負うのかな、と思うと少し泣けて来る。だけど本来だれしもが小さな経営者であるはずだ。自分の人生の舵を切るのは自分だから。だから、本人が背負いたいと思うなら、それでいいはずだ。

去年まではD×Pと自分が一体化しているような感覚だったけど、今年はD×Pと自分が切り離されていって、「わたしがいなくてもひとりひとりが自分の意思で動いて結果的にD×Pっぽくなっていくにはどうしたらいいのかな」と思うようになった。わたしは去年11月にどうしようもない不安にさらされてて、やっぱりだれもとなりに来てはくれないのだ、という思いでいた。そこから一年 経つ。一年で見える景色がこんなに変わるものかというくらい変わった。いい一年だった。年末感。


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