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小さな組織のスピードと未完のものを世に出し続けること

スピードはこんなにもひとを打ちのめすものなんだな、と思うことが増えた。自分のやったことを振り返る暇もなく、また次、また次…とせいていくことはひとをおおいに疲れさせてしまう。そのひとの体内にあったものが根こそぎうばわれて、カラッカラになってしまうような感じだ。

それが1年経ち、2年経ち、ふと振り返ったときに自分の手元に何も残っていないような気持ちになり、「この生活があと1年2年3年と続くのか」と思うとその状況に絶望してしまって、ひとの心をポッキリ折ってしまうのだろう。

ベンチャーや小さな組織で仕事をしていたけれどやめてしまったというひとのお話をじっくり聞くたびに、胸がぎゅっとなる。目の前のひとは、もうカラカラの砂漠のようだ。「お水ー!!」と叫びたくなる。そして、それは決して対岸の火事ではなく、10人程度の組織をつくっているわたしの問題意識として重く、重く、のしかかる。

「まずやってみること」の重要性はよくよくわかっている。数年前にリーンスタートが流行ったときから、「まずやってみてベータ版をつくって、うまくいかなかったら完成版から逆算しながら修正して」という考え方がTwitterなどSNSを中心に出回り、IT業界の主流な考え方になったように思う。わたしはそれを初めて聞いた時、なるほどそれは合理的だ、と感じた。もともとその動き方は個人的に好きだったのだ。

でも猛烈なスピードにおい立たされながら行う「まずやってみる」は、当初わたしが想像していたよりもごっそりと、ひとの力を奪う。仮にそれで何かができたとしても本人が「できた」「やりきった」と思えないまま、次、次、とまたたくまに行動を求められる。ずっとベータ版を作り続けているということは、未完成のものを世に出し続けるということで、その未完成さは自分の仕事に自信が持てなくなる原因となり、しいては自分への自信を失わせる。

もちろん完全なものなどできない。「できた」と思えたものにも必ずアラがあり、時代の変化とともに修正をもとめられる。失敗だって大量にするはずだ。でも、仮に失敗だったとしても、その瞬間に「できた」と本人が思えたことそのものが、仕事人として、ずっと続く価値になる。

スピードは大事だ。でも、その速さである理由を明確にし、スピードによって失われるものがあることを冷静に見定めて、天秤にかけなければと思うようになった。

ここで、難しさがふたつある。

ひとつめの難しさは、ひとによって流れるスピードが違うことだ。組織のなかで、あるひとにとっては、それがひどくのろく感じられ、まったく市場のニーズに答えられていないと感じる。あるひとにとっては、それがひどくはやすぎると感じられ、このはやさについていけない自分が悪いのではと感じさせてしまう。

組織には、その組織内独自の体内スピードがあるという。おそさに合わせると、市場のニーズがとらえられなくなり、組織として生き残れないほどのスピードになってしまう。全部おそさに合わせればいいというわけではない。一方で、ついていけないほどのはやさはだれかを衰弱させてしまう。そのひと、ひとりの人生よりも大事なものはない。このジレンマとどう向き合ったらいいんだろう。

ふたつめの難しさは、NPOなどの非営利組織やビジョナリーなベンチャー企業であるとなおさら、"こまっているひとが目の前にいる"という免罪符が機能してしまうことだ。こんな状況なのにおそくしていられるか、というロジックになり、スピードを求める大きな理由になる。これが担い手に「このはやさについていけない自分が悪い」という感情を強く持たせてしまうことにつながる。この理由はまっとうだ。非の打ち所がなさすぎて、逆に担い手をつぶしてしまいそうになる理由でもある。もちろん遅すぎれば当事者に出会い課題解決する力のないNPOとなり、社会での存在意義をうしなってしまう。

ジレンマが多い。「マネジャーの仕事なんてジレンマだらけで、ジレンマを抱えるためにいるようなもんかもしれないね」とあるひとが言ったことを思い出す。

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息つく暇もなく次の仕事がおとずれ、未完の仕事を次から次へとこなし、整いのないカオスな環境下で憔悴しきっているひとをみるとき、いつも、どうしたらいいんだろう、と頭をもたげる。

結局わたしがやることは、休むようにうながすこととと、「いま、ここ」に集中するようななにかにうながすことが多い。テレビや漫画、本、音楽などコンテンツに逃げ込んでそのなかに没頭するとか、ランニングや筋トレなど体を動かすとか、裁縫をするとか、料理をするとか、野菜を育てるとか、そういう、その物事に一心に集中できるなにかへ。

でも、ふだんの仕事においても「いま、ここ」に集中することができたら…と思う。そうするなかで、そのひとが納得のいく仕事にたどり着いてほしい。仏教徒ではないのに仏教の禅みたいな話になってしまった。こんなの悟りをひらいたひとしかいけないような境地なのだから、ましてやわたしたちが生きるなかで「いま、ここ」を生きることはとてもむずかしい。でも、可能なかぎり、「いま、ここ」に集中できるような一瞬一瞬を、仕事をしているなかで生み出せるように。ほんのひとときでもいいから。

道路掃除夫ベッポというひとが、ミヒャエル・エンデの『モモ』のなかに出てくる。モモの大切な友達のひとりで、かんたんに言葉を発さないひと。言葉が自分のなかで熟すまで、待っているひと。じっとそのひとの言葉を待ち続け、話を聴くモモに、ベッポがこんなふうに語るシーンがある。

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

また一休みして、考え込み、それから、

「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

そしてまたまた長い休みをとってから、

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからんし、息もきれてない。」

ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。

「これがだいじなんだ。」


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