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《早さ》という正義


わたしは動きが遅い。

こどもの頃からそう。

見た目は子どもなのに
若者なのに
動きはおばあちゃんみたい。

いつも
そのアンバランスさを
悲しく思って生きていた。


早いことは良いこと。
早い人は優れている。

早さって何?




世の中は
いつからか効率化を目指すようになった。

その方が
生産性が上がるから。

食料がより調達できる。
製品が安定供給できる。

それは
人類の人口増加に必要なこと。

生きるために必要なことだった。



しかし
人々は勘違いを始めたのではないか?

効率化 = 早さ

早くできることが良い。

生活に早さを求めるように
なってしまった。


問題が早く解けること。
片付けが早くできること。
気がつくのが早いこと。

早く食べられること。
早くできるようになること。

早く、早く…


早いことは正義になってしまった。

本当に正義なんだろうか?





効率化で生まれる時間は
確かに有効だと思う。

生まれた時間で
何か新しいことができる。

ゆっくり休むこともできる。


でも
人はロボットではない。

早さの物差しは
人によってちがう。


どの物差しを使うかによって
その出来事の評価は変わる。

早かったのか。
効率的だったのか。

無駄がなかったのか。
丁寧だったのか。




丁寧さと早さは
相反する気がする。

物事を丁寧に扱う時
慎重に動く気がする。


その時

いつもより
ゆっくりではないか?

いつもより
よく考えていないか?


丁寧に!

早く!

わたしたちは
何を求められているのだろう。





例えば

生けていた花を
枯れてきた花を
捨てるか残すかを考える時

ためらいなく
捨てる義母を見て

「凄いな。」と思い

「ためらいはないのかな?」
とも思った。



わたしなら
枯れてきた花の中で

捨てる花と
残す花を
選んでしまう。


その行為は
時間を要するもので

無駄な時間と思われたり
動きが遅いと思われるのかもしれない。




ためらいなく
捨てられる気持ちと

まだ咲いている花を
捨てられない気持ちに

本来
優劣は無いと思う。


それが

《早さ》《効率化》という
フィルターを通した瞬間

咲いている花を
選ぶ行為は
劣側に転落する。

時間がかかるから。




早さと遅さにも
優劣は無いはずだ。

人の思考や
行動にかかる時間は

人によって違い
人によって様々だ。



《遅さ》とは
深く思考していたり
決める過程に時間を費やすことで
自分を納得させていたり

理由があって
時間を費やしている。 


その時間を無くして
心を納得させないまま
物事をこなしていった時

いつか
心のバランスを
崩すのでは無いだろうか。



わたしは
noteに自分の思いを綴る中で

考えることは悪いことではない

という言葉をもらった。



子どもの頃から
「考え過ぎだって。」と
よく笑われていた。

考え過ぎることは良くないこと。

考えることは良くないこと。

いつしか思考はすり替えられ
わたしは《考える》ことは
良いことではないと思うようになっていた。



そして
このnoteを書きながら思う。

わたしに《早さ》が無いのは
《考える》からではないのか?

思考するから
すぐに行動できないのではないか?



そう思うと

考えることは悪いことではない

ということと共に

すぐに行動できないことも悪いことではない

のかもしれないと思った。





《早さ》という正義に
苦しむ人は
案外多いのではないかと思う。


多様性を認めあう中で
《遅さ》も認めていって欲しい。

思考する時間も
大切だと思うから。


答えが出るまで
待てる世の中になると

もっと楽に
息ができるような気がする。




***




ヘッダーは

食べきれなくて
花が咲いてしまい

繁茂して
通路を塞ぐ春菊を

一部
切り取った後に

咲いていた花だけ
お皿に浮かべてみた写真。


咲いている花を
捨てられなかったから。




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