見出し画像

母が逝った日

暑い暑い夏の日に
母が逝ってしまいました。
享年93歳

去年の10月末に実家の玄関先で転んで大腿骨を骨折
そのまま入院となり、手術を受け、リハビリを受けつつ2か月半ほどの入院生活。元のように歩くことは難しいと言われ車いす生活になっていました。

母は実家の山形で一人暮らしをしていました。
退院が決まった1月半ばは真冬の真っただ中、実家に戻っても車イスで一人で生活することは困難な状態でした。
高齢の割には認知証もなく、長い入院期間でボケることもなくしっかりとした受け答えが出来ていたので、本人と病院のケアマネさんとも相談して、とりあえず介護老人保健施設への入居を決めたのでした。

コロナと言う未曽有の疫病に見舞われ3年以上。関東圏に住んでいる身としては、その間実家への行き来もはばかられ、高齢の母の一人暮らしの様子を遠くから心配するしかなかった日々。骨折での入院を知らされた時も手術の日にオペ室に入る前に二言三言話せただけで、それ以降は病院を訪れても病棟にも入れてもらえず。
15分ほどのオンラインでの面会は出来たので、画面越しには会えていたけれど、直接会って顔を見て手を取って話せたのは退院の日だけでした。

その退院も病院から直接施設への退院となったので、移動のタクシーの中での30分ほどの時間だけ。施設についたらもう玄関先で「じゃあね、また来るからね。リハビリ頑張ってね。」と手を振って別れてきました。
タクシーの中で「ちょっとの時間でも家に帰れたらよかったね」と、さみしそうに言っていた姿を思い出します。

父が亡くなってから27年、雪深い山形の地で春になれば庭先の畑に野菜を作るのを毎年の楽しみに、近所の人に助けられながら一人で暮らしていた母。おしゃべりで人と話すのが大好きで、なんにでも興味と好奇心を持って挑んで、どこにでも一人で行くし何でも一人でこなしていた母。

山形の自分の家が一番大好きだった母。

冬を超えて春になって、施設に会いに行ったときはまだ1階と2階をオンラインで繋いでの面会しかできなかったけど、車イスを自分で動かせるようになったこと、ちょっとの間なら立ち上がって動けること、一人でもポータブルトイレを使えること、リハビリ頑張って少しでも歩けるようになったら家に帰りたいな、秋には帰れるかなとしきりに言ってたっけ。

あぁ、帰りたかったんだね。ずっとずっと帰りたかったんだよね。

母が施設に入ってから、どうやったら家に連れて帰れるだろうか?とずっと考えていました。バリアフリーとは程遠い段差だらけの古い家。家の中で車イスで動けるようにするためにはいろんな工事も必要です。トイレも改修して車イスでも入れるようにしたいな、玄関先の段差と砂利道はどうしようか、なにより一人じゃもう暮らせないから私が山形に帰って面倒をみる?
そうしたら神奈川での仕事と生活をどうする?

考えること調べることはたくさんありすぎました。

6月に入って、コロナの規制が緩んで施設の面会がやっと対面で出来ることに。やっと会える、やっと顔を見て話せる!と山形に会いに行ったのは6月の末。元気そうな顔を見て、本人が言っていたように、このままリハビリ頑張って少しでも動けるようになれば秋に一度家に帰れるように、それを目指していろいろ計画しよう!

そんな風に話していた矢先。
7月の半ばに心不全を起こして入院となったとの知らせが。すぐに病院に駆けつけ様子を見て、でもその時は思いのほか元気そうだし、ちょっと苦しそうだけど大丈夫、また元のように元気になるよねと後ろ髪をひかれつつ神奈川に帰りました。

そして8月初め。病院から「余り状態がよくないので娘さん来れますか?」との連絡が入りました。もしかしたら8月いっぱいは山形で母の面倒を見ることになるかも?と思い、8月頭に入っていた仕事を全部キャンセルし、前倒しで出来ることはやって、しばらく滞在できる状態にして山形に向かったのは3日の早朝。朝一番の新幹線に飛び乗ってそのまま病院に駆けつけた時の母の様子は、呼吸は苦しそうだったけどちゃんと会話もできたし、こちらの言うこともきちんと理解できていたし、「実家にしばらくいるからまたすぐに会いに来るよ」と言ったら嬉しそうに笑っていたっけ。

なんだ大丈夫じゃん。だって100まで生きるって言ってたもんね。
夏の暑さに弱くていつも夏バテしてたから、今回もきっとそう。
夏が過ぎたらまた元気になるよ。

そう自分に言い聞かせた3日後の夜、状態は急変。
その日の夕方も面会に行って話も出来ていたのに、夜病院に駆けつけた時には呼びかける私たちの声にうっすらと目を開けるだけでした。

浅い呼吸と朦朧とした母の姿を見た時
「あぁ、もう戻ってこないんだろうな、大好きな父のところに行ってしまうんだろうな」と感じました。
そして、今まで一人でうんと頑張ってきた母にこれ以上頑張れって言えなかった。何よりも、もうすぐにでも大好きな家に連れて帰りたかった。
帰りたくて帰りたくて仕方のなかったあの家に・・・

8月7日午前1時25分
最後はスーッと眠るように母は息を引き取りました。
最後の母の顔はまるで、自宅の茶の間で座布団を枕にテレビを見ながらうとうとと昼寝していたときのような顔で、いつものようにただ寝ているだけのようで、「ばあちゃん」と声を掛けたら今にも目を覚ましそうでした。


いくつで亡くしたとしても、どんなに手を尽くしたとしても、後悔は残ります。あの時こうしていれば、あの判断は正しかったのか、言えばきりはありません。でも一つだけ・・・、やっぱり生きている間に実家に連れて帰りたかった。

おかあさん
お疲れさまでした。そしてやっとやっと帰ってこれたね。お帰りなさい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?