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医事法の最前線

 九州大学大学院法学研究院の先生が、「医療訴訟論」という講義を担当されています。これまでの医療訴訟の判例をもとに、医事法について学びます。過去の判例を読み、不法行為責任、債務不履行といった医事法におけるキーワードを意識しながら、解釈していきます。過去の判例を読み解くことで、日本や世界の医療訴訟における変遷が理解できる講義でした。

不法行為責任(民法709条)
「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を損害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」というもの。過失とは、注意義務(duty of care)違反のこと。過失責任の原則として、裁判官に向けて過失の証明・立証をしなければ損害賠償はさせられない(過失の立証責任が患者側にある)ことになっている。
民法415〜418条:債務不履行による損害賠償など
債務不履行の場合は、その不存在について債務者(医療者)が負担するが、不完全履行と理解される診療債務の不履行は、履行された債務のどこに不完全な点があって不適切な結果が生じたかを指摘する責任は債権者(患者)側にあるとするもの。
※つまり、患者さんの側が過失の証明や債務不履行の指摘をするという負担があるということです。

 医療の進歩に伴い、医事法が扱う内容も幅広くなり、対応が追いつかなくなっている面があるそうです。そんな近年の医事法における難しさについて、「医事法の最前線」として学んだことについて今回は書きたいと思います。

生殖医療の展開と法

 生殖医療における医事法の難しさは、人工授精や代理母といった形で生まれたお子さんの「母」や「父」の定義についてです。まず生殖医療に関しての用語を簡単にですが以下にまとめておきます。

Artificial Insemination by Donor:AID。夫婦関係において夫側の精子に問題があり、他の男性(ドナー)の精子を用いての人工授精のこと。
Artificial Insemination by Husband:AIH。AIDに対して、夫の精子を用いる人工授精のこと。
代理母:夫婦の精子と卵子を以て第三者の女性の子宮に移植し妊娠・出産する(いわゆるホストマザー)、もしくは夫の精子を妻以外の女性に人工授精し妊娠・出産する(いわゆるサロゲイトマザー)こと。                 (日本産科婦人科学会「代理懐胎に関する見解」より)

法的な「母」、「父」とは

 過去の判例から、「出産・分娩」が「母」である要件となっています。つまり、出産・分娩の事実で女性は「母」であることが認められることになります(民法799条)。概ね、この考え方は世界標準となっているようです。逆に、男性が「父」であるためには、子が生まれた時点では「推定」の父であり(民法772条)、それを認知するかどうかで決まります。つまり、男性が「父」であるためには、①女性による懐胎②婚姻関係③その夫が父親である推定、という3段階論法が前提になるということです。

 ちなみに、準正といって、婚姻関係にない男女の間に子どもが生まれた場合(上記3段論法の②が欠けている状態)は、事後的に婚姻関係を結び、男性が認知することで嫡出子(婚姻している男女から生まれたお子さんのこと、非嫡出子は婚姻していない男女から生まれたお子さんを指します)として認められます。いわゆるできちゃった婚の場合がこれにあたります。

 上記を踏まえて、AIDの場合を考えてみます。婚姻関係にある女性が妊娠・出産するので、「母」はその婚姻関係にある女性になります。しかし、「父」は妊娠・出産の時点で婚姻関係にある男性になりますが、精子は第三者の男性のものであるため、遺伝子的には「父」ではない、という状況が生まれます。また、女性が特定の男性と婚姻関係にない状況で人工授精によって出産した場合は、「父」となる前提の男性が不在となってしまいます。

 次に代理母の場合です。出産するのは代理母にあたる女性なので、法的には代理母の女性が「母」となってしまいます。さらに、代理母にあたる女性と精子を提供した男性は婚姻関係にはないので、認知の必要があるという状況になります。そして、卵子を提供した女性は、法的には第三者になってしまうため、生まれたお子さんと養子縁組をする必要があります。

 このように現状の法のもとでは非常に複雑な状況が生まれてしまい、現実的なところを医事法で解決しようとする難しさがお分かりかと思います。

無戸籍という現実

 さらに、この「父」であることの認知については、民法772条の「妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定」すること、「婚姻成立日から200日経過後又は婚姻解消日から300日以内に生まれた子は婚姻中に懐胎したものと推定」するとなっており、離婚後200日以内に出生した子の父親は元夫の男性になる、という仕組みになっています。このため、お子さんを元夫の戸籍に入れるのをためらってしまい、無戸籍のまま過ごされる方々が、実はいらっしゃいます。

 『無戸籍の日本人』という本を読んでいたこともあって、非常に関心高く講義を拝聴させてもらったところもあります。この本では、実際に戸籍をいれるにあたって悩まれた著者の苦悩や、同じ境遇にある方々を調査し明らかになった問題が書かれています。

 恥ずかしながら、この本を読んだり講義を聴くまではそういった方々がいることも知りませんでした。書籍でも書かれていますが、無戸籍であれば普通に医療を受けることにも支障をきたす弱い立場にさらされてしまいます。そのような方がおられることを知っていることで、もし実際に関わる機会があった際に、適切な対応ができるようになれればと思います。


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