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いちばん最初の記憶

自分の生れてから映像で思い出せる一番最初の記憶は、3歳の時だ。

3歳の春、祖母が亡くなった。それまでの記憶はどこかおぼろげだけど、その時の数分の記憶はすごく鮮やかだ。

亡くなった祖母のベッドを両親と妹と一緒に囲んで、わたしと母が泣いた。

父は泣かなかった。
そして、わたしと母に「なんでおまえらが泣くんだ」と少し弱った口調で言った。

おそらくだけど、父は数年前に祖父(父にとっての父)を亡くしていたし、祖母は持病があったり認知症になっていたりしたから、心の準備ができていたんだと思う。

考えると、父が自分の親父を亡くしたのはいまの私よりも若い。30代初頭だ。そのことを考えるとき、わたしは父に感謝しなくちゃなといつも思う。だって父は、幼いころからずっと、自分の親父が不在がとても心細かっただろうから。祖父は、人より体が弱くて、今でいえば軽度な発達障害があったらしい。わたしが生まれる前に亡くなった祖父のことを、わたしは知らないけれど。

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もうひとつ、3歳の時の強烈な記憶は、父が高所から落下してけがをした。そしてそれを真下からみていた。
「ぽーんてね、落っこちてきたんだよ!!」
しばらくわたしはそんなことをよく話していたらしい。

そして、救急車が来た。わたしと母と妹は、母の運転する車で、救急車の後ろを必死に追いかけた。というか、わたしは母が必死に追いかけるのを見ながら、母の不安な気持ちやしっかりしなくてはという振る舞いを覚えている。

それから半年くらいの間、母は父の入院する病院に付きっきりで看病した。当初、救急車で運び込まれたとき、父の病状について医師は、背骨が複雑骨折して、首から下は動かないと言われた。その手術の日取りも決まっていて、それは父が本当に下半身不随しか可能性はなくなる日のはずだった。

けれど幸いなことに、手術の数日前、大学病院の医師が違う方法での手術なら普通の生活に戻れるはずだと言った。その先生は、手術の日取りからやり方まで全部変えて、手術も担当してくれた。

手術後、父はいきなりは動けなくて、体力も落ちて、普通の生活すらも何年もかかって回復するところだ。退院してからの日々、きっと不安だったろうなと思う。

その3年後、母が持病を持って働くことができなくなったことはきっと相当なショックだったに違いない。

わたしはあの頃、自分が何に不安なのかわからないけど不安だったことを覚えている。

幸い父は、今も元気に畑で仕事をしたりしている。

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父が退院するまでの半年間、わたしは妹や、飼っていた猫やニワトリたちと一緒に母の実家に預けられた。わたしはよく、父が落下したときのことを話していたらしい。

今になればよかったねで済む話だけど、わたしの中では、どんなに頼りにしたい人でも、その人が生きていても、頼れないことがあるんだと身に染みた。いや、確かに助けてくれる存在がこの世界には存在したのだけど、わたしにはそんな細かなことはわからなくて、漠然となにか取り上げられてしまう気持ちがしていた。

今になれば、それはかなりの衝撃的な経験のような気がしている。単純に父が怪我をするのを3歳の女の子が、真下で見ていたのは #PTSD だったろうと思う。6歳の時にも母が入院して同じように両親と離れて暮らした日々があったことは #複雑性PTSD にもつながったような気がしている。

でも、父も母も、決して悪気のある人たちではなかった。わたしたち家族に運は味方しなかった。長女の私はその経験に一番影響を受けてしまったなと今は感じて苦労するけど、一生懸命母を支え、妹の面倒を見て、父の帰りを待てたことは誇りだ。

わたしは、今年の2月、あることを思い出しながら、「家族を愛せたことが誇りだった。嬉しかった」と気づけた。(その話はまた別の時にしようと思う)だから、わたしのいちばん最初の記憶は、自分を #誇れる 記憶だ。

ちなみに、祖母の認知症秘話も色々ある。今のような #ダブルケア という認識もなかったし、認知症は家族が冷たくするからという風潮の中で起きていたことも一つのエピソードとして書きたいと思う。

田舎の町に、引きこもりの人も含めたフリースペース、フリースクール、そして職業訓練施設を作ることを夢見てます。応援していただけたら嬉しいです。