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シェイプ・オブ・ウォーター(化学的な意味で)#05

水分子の電子軌道を表現するためにベクトル空間の座標軸を用意したら、1001次元もの巨大な空間になってしまいました。計算機で力任せに軌道を決めても良いのですが、あんまりスマートではありません。だってわたし達が扱っているのはたった一つの小さな水分子に過ぎないのです。精度を上げるために基底を増やしたり、もっと大きな分子を考えたりすると組み合わせは爆発的に増加して、すぐ手に追えなくなってしまうでしょう。

例えばベンゼンという分子を考えてみます。この分子は炭素原子6個と水素原子6個からできています。この最小基底系を考えると、炭素が5つ、水素が1つずつですから(5×6+1×6)×2=72個です。ここに入るのは42個の電子ですから、配置の組み合わせは72C42=1.6×10^20(1.6垓)。こんなに大きな数を直接扱える計算機は地球上にはまだ存在しません。こんなに小さな分子ですら扱えないようでは、量子論の実用性は皆無です。

そういえば真の波動関数はベクトル空間上の矢印なのでした。まずは最も真の波動関数に近い軸を見つけて、そこから似たような軸を順番に取り込んで行けばどうでしょう?原子軌道を求めたときのように、多電子軌道を単電子軌道によって構成し直してみます。この軌道は用意した最小基底の足し合わせになっていて、単参照のハートリー・フォック波動関数と呼ばれます。

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ハートリー・フォック波動関数の左から5つ(1A1、2A1、1B2、3A1、1B1)の軌道に電子を二つずつ詰めた状態はハートリー・フォック基底状態、この時のエネルギーがハートリー・フォックエネルギーと呼ばれます。そしてこのエネルギーと真のエネルギーの誤差を電子相関と呼ぶのでした。これを他の配置状態を足していくことで補正していきます。(最小基底を足したり引いたりしただけなので、軌道の数や組み合わせの数自体は変わりません。)

以下ハートリー・フォック基底状態を参照状態と呼ぶことにします。これに対して、電子の詰め方を変えてあげた状態を仮想状態と呼びましょう。次に仮想状態を分類します。参照状態と比べて一つの電子だけ変わった物を一電子励起状態、二つなら二電子励起状態…と言った風に、参照状態から近い順に名前を付けてあげましょう。

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電子軌道のエネルギーは電子の運動エネルギーと原子核との引力、電子反発の足し算によって計算できるのでした。ここで近似波動関数のエネルギーを求めたいのですが、シュレディンガー方程式は線形代数の問題ですので、行列の形に表せるはずです。

参照状態のエネルギーをE0としましょう。同様に一電子励起軌道をE1、二電子励起軌道をE2としていきます。その合計が近似した多電子波動関数のエネルギーになって……いません。まだ足りない物、それはそれぞれの状態の間の相互作用です。

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この表の中身は行列要素と呼ばれ、全て実数の値を取ります。この行列の最小の固有値という物を求めると、それが近似多電子波動関数の基底状態のエネルギーになっています。ですが、V01、V02...といったそれぞれの成分を計算するには波動関数を何度も積分する必要があり、全て求めるのはなかなか骨が折れそうです。ここで、わざわざ状態に名前を付けて並べ直した威力が発揮されます。

参照軌道と仮想軌道の数式をよくよく調べてみますと、励起した電子の数が3つ以上違う仮想軌道の間には相互作用が働かないことが分かります。つまりV03やV14といった要素は計算せずとも0になると分かるのです。さらに参照軌道と一電子励起軌道の相互作用V01も同様に0になります。さらにこの行列は対称行列になることも分かります。計算を大幅に削れそうです。

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こうしたテクニックを駆使することで、なんとか水分子の多電子電子軌道らしきものを得ることができます。この雲を用いれば、電子密度や永久双極子モーメント、解離エネルギーなどを知ることができます。

ですが、化学者はまだ不服そうですね。彼らが本当に知りたいのはフロンティア軌道と呼ばれる反応性を支配する因子や光の吸収や発光、結合の柔らかさ…といった物理的プロパティなのですから。そこに踏み入るにはこの電子の雲についてもっと深く知らなければならなそうです。

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