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シェイプ・オブ・ウォーター(化学的な意味で)#02

量子論がヘリウム原子にも太刀打ちできないだなんて、なんと絶望的な事実でしょうか。原子核1つと電子が2つになった途端にお手上げとは…量子論なんて所詮は水素原子の輝線スペクトルを説明するだけの、難解な数式いじりに過ぎなかったのでしょうか?

化学者は天文学からヒントを得ました。例えば月と地球、そして太陽の軌道を考えましょう。天体の運動ははるか未来まで運命が決まっているのに、その動きを表す数式を作ることはできないのです。つまり千年後の月と太陽の位置と運動の向きを調べるには、愚直に千年分の軌跡を辿っていく必要があると言うことです。いわゆる三体問題です。

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さて、天文学者と数学者はこの問題にどう立ち向かったのでしょう?なんと彼らはまず月を無視したのです。つまり太陽と地球の運動を導き、最後に月の影響を付け加える形で補正するという作戦を取ったのです。この大胆な近似計算により彼らは天体の動きを予測し、さらには観測結果と理論のズレから未知の惑星を発見するなど、華々しい成果を収めました。これを摂動法と言います。

ヘリウム原子も同様のアイデアでアプローチできるでしょうか?つまり、細かい話は無視して簡単に解ける系を解き、その解に少しずつ補正を加えていくというアイデアです。

このような仮定をしてみましょう。

「ヘリウム原子の電子の形は水素原子とそう大きく違わない。」

ここから想像できるヘリウム原子の形はこうなります。

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水素原子とヘリウム原子の違いは原子核の電荷と電子の数です。すなわち、ヘリウムの原子核は+2の電荷を持ち、電荷-1の電子を2つの電子雲が釣り合っています。+と-のバランスは取れたのですが、雲の中に電子が2つ詰め込まれており、電子の間で反発してしまいそうですね。それについて知るには、この得体の知れない電子2個分の雲についてもっと知らなければいけないようです。ついに量子論の本領発揮です。

量子論において、この電子2個の雲は多体波動関数と呼ばれるものです。すなわち、いくつかの粒子の「確率の束」が空間的に同じ場所を占めていると考えます。ポケットをたたくとビスケット2つという童謡よろしく、波動関数の「写真」を取ると電子2つが飛び出してきます。(波動関数は数学的には複素数の値を持つ関数なので、場所や時間によって虚実を行ったり来たりしています。波動関数の値を二乗すると実数の形で出てきて、これが存在確率を表します。)

言葉ではどうもイメージしづらいのですね。実際にサイコロを振るように観測を繰り返してその振る舞いを見てみましょう。

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電子は原子核に引っ張られるので、電子が原子核の近くに観測される可能性が高いようです。また、電子同士は反発力が働きますから、2つの電子がすぐ傍に現れる可能性もあまり高くなさそうです。(確率統計をご存知の方でしたら同時確率分布というものを考えるとわかりやすいかもしれません。)

さて、イメージは出来ましたが、雲の実態は得体がしれないままです。前に進む為に一つ大胆な仮定をします。

「ある電子は他の電子の平均場から反発力を受ける」

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なんと複数の粒子を同時に考えなければならなかった多体波動関数を、電子1つ1つの波動関数に分離して、電子と電子の都合は無視してしまおうという作戦です。他の電子が作る平均的な静電ポテンシャルの元でもう一方の波動関数を決めようとしても、電子同士が接近する確率を無視することになってしまいます。これを平均場近似と呼び、その誤差を電子相関と呼びます。(この用語の詳細は後の記事で見ていきます。)

これについて簡単な例え話をしてみます。お昼ごはんにあんかけチャーハンとオムライスを作ります。ところがチャーハンもチキンライスが混ざってしまいました。混ざったご飯を半分に分けて、卵を乗せればそれは平均的にはオムライスですが、果たしてそれはオムライスと呼べるでしょうか?あんまりうまくなかった気がします、料理の話だけに。

……ともあれ、なんとか道具が揃いました。あとは次の手順を適用すれば良いだけです。

1. まず原子核と電子の一電子波動関数を解く。

2. 1つ目電子の平均的なポテンシャルと原子核の影響下でもう1つの電子の波動関数を解く。

3. 2つ目の電子の影響で波動関数から平均的な静電ポテンシャルを作り、1つ目の電子の波動関数を再び解き直す。

4. 以下繰り返し。

以上の手順は変分的な自己無撞着法と呼ばれます。この手法は平均場の元での近似なので、あまり良い精度ではなく、磁性や励起エネルギーの順序の予測も間違えてしまうことがよくあります。平均場近似を超えた理論や、量子モンテカルロ法などの直接的な高精度計算法も知られていますが、計算量は莫大になってしまい、計算時間やメモリとのトレードオフ関係があります。なので、扱う問題によって最適な手法を見極める必要があります。

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さて、なんとかヘリウム原子の形がなんとか出てきたようなので観察してみましょう。すると水素原子よりも雲が縮んでいることが分かります!(雲の半径というのもおかしな話ですが、上手く平均値を出してやると水素原子は0.53 Å、ヘリウム原子は0.31 Å程度の値を持ちます。)考えてみればおかしな話です。原子核が+2の電荷で電子を引きつける効果が、電子と電子が反発する効果よりも強く現れたと考えれば良いのでしょうか?もしくは雲をパックリ2つに割ったりした方が安定化しないのでしょうか?

ここで再び量子論の神秘が顔を出します。なんと電子の雲には同じ空間を占める2つの解があるのです。見た目は同じでも別の軌道…ああ、なんと難解!この多重度はスピン自由度と呼ばれます。スピンと言いますが回っているわけではありません。(回ろうにも電子には大きさがないのです。)ですが角運動量は持っています。興味のある方は「アインシュタイン・ドハースの実験」について調べてみてもらえると楽しいんじゃないかと思います。

お疲れ様でした。少しずつ光明が見えてきたように思えます。次回はついに分子を考えていきましょう。

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