わたしは口が悪い。
先日、友人の小倉ヒラクくんと話していたとき、彼が目をキラキラさせながら、ものすごくうれしそうに「サクちゃんって、ほんとに口が悪いね!」と言った。「おまえもな!」と思いつつ、「そうなんだよねえ」と返した。
わたしは、口が悪いのだ。
一般的に口が悪いというと、「誰かや何かのことを悪く言う」「汚い言葉を多用する」というイメージがある。わたしは汚い言葉はできるだけ使わないようにしているし(他にぴったりの言葉がないと止むを得ず使うこともある)それで悪い印象を人に植え付けたいわけではない。できればよい印象のほうがいい。
ただ、ひとによい印象を与えたいという気持ちよりも、大事にしていることがある。
「ひとに悪い印象を与えたくない」「よい印象を与えたい」というように「相手にどう思われるかを気にする」ということは、相手の感情をコントロールできると思っているのと同じことで、じつは傲慢なことなのではないかと思っている。
わたしは、相手の感情を先まわりして気にするよりも、誰にどう思われたとしても後悔がないように、正直な言葉を話しているかどうかを気にしたい。そちらの方がずっと優先順位が高い。
「正直な言葉を話したい」というのは、「自分そのものと、言葉や態度が同じでありたい」ということなので、正直な言葉を話した結果、相手に悪く思われてしまっても「この自分を嫌いだと言うならそれはしかたがないな」と思える。それに、自分とかけ離れたことを言って好かれてもうれしくない。
「どう思われても構わない」といっても、言葉をまちがって使ってしまい、うまく伝わらなくて誤解されることはすごくいやだ。そうならないためには、自分自身が過不足なく等身大の自分を知っていることが前提で、それを大きくも小さくも見せないで言葉にすることが、とても大事だ。
また、「どう思われても構わない」ということは、誰かの反応はまったく関係ない、反応はいらないということではない。
「相手によろこんでほしい」ということと「相手がよろこぶことを言いたい」というのには大きなちがいがある。リアクションや評価を想定して出すと、リアクションが目的になってしまう。まず正直に出して、結果的によろこんでくれるというのが双方がうれしいことだと思う。
わたしは口が悪いけど、わたしの周りには負けず劣らず口が悪い人たちがたくさんいる(ヒラクくんもそのひとり)。その人たちが正直に思っていることを話すのを聞いて「口が悪いなー!」と苦笑いしつつも、お化粧せずに思っていることをそのまま見せてくれるということがとてもうれしく、それに応じてわたしも正直に出すことができる。
それに、どんなに口が悪くても、相手を嫌な気持ちにさせたくて言っているのか、ただ正直に伝えてくれようとしているのかどうかはわかる。
わたしは、自分が正直になればなるほどよろこんでくれる人が周りにいることが、とてもうれしい。「よいわたし」を望まれているのではなく、わたしが出すものはなんでもよろこんでくれるからだ。(あまりひどいと「言い方!」と怒られるけど、それもありがたい)
ここ数年で「正直でありたい」と思うようになってから、正直でいる意思決定や努力も必要だったけど、手っ取り早いのは「自分が正直でいるとよろこんでくれる人がいる」ということだった。赤ちゃんが「歩いた、歩いた!」と成長をよろこんでくれる親にドヤ顔で何度も歩いてみせるように、わたしは好きな人たちと話していると、どんどん正直になっているように思う。
そして気がつくと周りには(口は悪いが)正直な人たちばかりがいる。正直でありたい人が寄ってきたりするようにもなった。そこはわたしたちの正直村だ。
わたしの口の悪さは、もちろん褒められるものではないけれど、口だけではなくて自分の行動にうつせれば結果オーライだし、正直村の愛すべき口の悪い友人たちよ、これからもそのままでいてねっていう話。
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