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SAC about YODAN

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2016年9月の記事一覧

タイムマシンでひねくれた正直さをとりもどした話。

そういえば、小学校に入ったくらいから毎日日記をつけていた。「きょうは、スイミングスクールに行きました。たのしかったです。」などというなんでもない日記で、誰かが読むわけでもないので、思ったとおりに「なにもなくてつまらない日だった」とか「◯◯ちゃんはなんであんなにいじわるなんだろう」などと書いていた。 小学校5年生で転校したとき、あたらしい学校で担任が国語の先生だったので、日記を書いて先生に提出して読んでもらうという習慣があった。毎日提出してもいいし、書いたときだけでもいいし、

漏らして、溢れて、カプチーノ

「ブログ、読んでます」と言われて、はて、と思った。 noteに書きはじめるときに、ブログってなに?コラムってなに?エッセイってなに?日記と雑記のちがいってなに?とわからないことだらけだったけど、ま、いっか と、とりあえず書き出した。そして、今でもわたしの書いてるのってなに?とわからないままだ。 ただ自分の中にある思いや考えを、文字という形にして外に出しているだけで、わたしの「書きたい」は「出したい」だけだった。 それでも、書きはじめてから、書いていたおかげでいろいろな人

ググレカスの向こう側(わからないと知りたいの距離の話)

たとえば「クッキーってどうやってつくるの?」と言われたとき、その人がなにを知りたいのかによって返事のしかたが変わってくる。それについてまったく想像したことがなくて、そういえばどうやるの?とちょっと知りたい人にむける返事と、今から実際にクッキーをつくろうとしている人にむける返事はまったくちがうものになる。もちろんどちらも真実を言うのだけれど。 上記の2択はわかりやすいけれど、実際に多くある質問というのはこの間のどこかで、すぐにはわかりにくい。「いつか役に立つかもしれないから、

弁当の泣きどころ

朝、目がさめた瞬間に思い出すのはなんだろうか。 わたしは、お弁当の段取りだ。 顔を洗いながらあたまの中で、手鍋にお湯を沸かして鮭をグリルに入れて冷蔵庫からたまごを取りだす手順を追う。 ふらふらとキッチンに立って、その手順をなぞって手鍋にお湯を沸かして鮭をグリルに入れて冷蔵庫からたまごを取りだす。卵焼き用の細長いフライパンを火にかけあたため、たまごをちいさなボウルに溶いて醤油と砂糖と出汁をすこし入れてまぜる。フライパンに油をしいて、たまごの液を流し入れる。ジューと音を立てた

コッコとタンタン(女の選択について)

「あっこはコッコ、ママちんはタンタン」 あーちんがまだちいさいころ、とつぜんそう言った。あっこというのはわたしの妹で、ママちんというのはわたしのこと。 「あーちんもタンタン。おとなになってもタンタンかな」 なんのことかときくと、コッコとタンタンとは、ヒールの靴とスニーカーやぺたんこの靴の、歩くときの音のことだった。たしかにそのとおり、妹はOLさんでヒールの靴をはいているし、わたしはいつもぺたんこの靴をはいている。 女のひとにとって、靴は特別なものだとよくきく。SATC

川上未映子×新海誠に思い知った先の「わたしはネクラの希望の星になりたい」という話

昨夜「SWITCHインタビュー 達人達(Eテレ)」で、川上未映子さんと新海誠さんの対談を観た。 おふたりとも、10歳くらいでみていた世界(いちばん解像度が高い時期と称していた)をとても大事にされているようだった。川上さんの死への恐怖、新海さんの寒さと光の感覚、「あのときのあの感じ」を持ち続けている。川上さんは実際に、「書くときにそのころのレンズがシャキンと入る」とお話ししていた。 ものをつくるひとは誰に向けてつくっているのか、というのはいつも興味があって疑問だ

あったらいいな、お店のHOME(褒め)ページ。

こんなのあったらいいのにな、のメモです。(Bar bossaの林さんの記事に触発されてます) 飲食店を探すのになんだかんだで利用している「食べログ」は、飲食店サイドからはあまりよろこばれていないように思う。その理由として大きいのは「誰だかわからない人に一方的に評価される」というのがあると思う。 分母が大きい(ユーザー数)ので、その評価が結果的になんとなく妥当な点数になってしまっているのでスゴイのだけれど、あまりよろこばれていないのも確かだ。わたしも、酷評するレビューや、上

ありのままでは着れないニットに思うこと

気仙沼ニッティングの新作のお知らせをみて、目を見張った。 あまりにもすばらしいものやすきなものに出会ったとき、直視できずに目をそらしてしまうクセがあるのだけれど、このニットの写真に対してもそうだった。サッとみて、目をそらし、チラッとみて、深呼吸して、すこし長くみて、と、くりかえした。 その感じは、対象がもののときもあるし、顔、才能、センス、場所、ことばのときもある。羨望や、嫉妬や、恋や、恐怖などの、そういうなにかが、瞬時に過剰に放出されて、目が追いつかないのだと思う。あこ

こどもはおとなになるから、おとなが夢をみましょうか。(14歳と子育てについて)

夏休みが終わって学校がはじまったからか、こどもについて考えている。 わたしはせっかちなので、こどもに接するときに気をつけているのは、「おとなから見て、こうしたら正解なのはわかっているから、そうしなさい」と先回りして答えを見せてしまうことだ。もちろんそれが必要な場面もあるけれど、こどもに考える隙を与えずに親が答えを出し続けていると、考えるクセがつかずに「親が望む方法=正解」への近道で、考える前に親の顔をみるようになってしまう。 ただ「親が望む方法=正解」という方程式は、どん