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コッコとタンタン(女の選択について)

「あっこはコッコ、ママちんはタンタン」

あーちんがまだちいさいころ、とつぜんそう言った。あっこというのはわたしの妹で、ママちんというのはわたしのこと。

「あーちんもタンタン。おとなになってもタンタンかな」

なんのことかときくと、コッコとタンタンとは、ヒールの靴とスニーカーやぺたんこの靴の、歩くときの音のことだった。たしかにそのとおり、妹はOLさんでヒールの靴をはいているし、わたしはいつもぺたんこの靴をはいている。


女のひとにとって、靴は特別なものだとよくきく。SATCのキャリーは「シングルウーマンの道は平坦ではない。だから歩くのが楽しくなる特別の靴が必要なのだ」だと言うし、イタリアのことわざでは「良い靴を履きなさい。良い靴は履き主を良い場所へ連れていってくれる」と言う。

そうか と思って、街で女の人の靴に意味を持たせて見てみると、ほんとうにそれぞれだ。ななめにすり減った靴底、大きなたくさんのスタッズ、細くて高いピンヒール、上品な部屋履きみたいなバレエシューズ、ビーサンなのに厚底、足首にまきつけたサンダルの革ひも、頑丈なエンジニアブーツ・・・。どうしてそれを選んだのか、そのひとの大事にしていることがすこし見えるような気がする。



特別なのは靴のみならず、女のひとの選択というのは、まずあれもこれもとわがままがあるので、そこから絞っていく必要がある。衣食住も、働きかたも、恋愛や結婚相手も。

たとえばわたしは「あたらしい靴がほしいな」と思ったときに、ピンとくるものがなければ何ヶ月でも買わないでいる。そのかわり迷うことはなくて、買うときは見て2秒でわかるし、迷わない。あたまの中でまだ見ぬそれがどんなものか見えていて、見たときに「これはわたしのだ」とわかる。靴になにを望むのかが見えている。

だとすると、働きかたも恋愛(結婚)相手も、同じように「それになにを望むのか」を自分で明確にわかっていれば、迷うことはないのではないか。あれもこれもと望んでいたら、いつまでも見つからないのではないか。(それはそれで別にいいけど)

そう思って我が身を振りかえると、仕事も恋愛も、それ以前に「ほんとうに探していたか」「あると信じているか」「ちゃんと見ているか」というところから疑わしい。


「それになにを望むか」を考えて絞ってわかったら、どこかにあると信じてちゃんと見て探す。選んだものがちがったら、また選び直せばいい。それには、まずは怖がらずにしっかり望むことからだ。手にした自分を想像することからだ。


そうして今日もじぶん会議でいそがしい。
わたしがほしいのは、コッコかタンタンか。



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