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誰かがいること☆

まだ春の心地よい風が吹いている頃のこと。

ある土曜のお昼ごろ
子供をのせて車で走っていると反対車線の歩道で、ひとが倒れているのが見えた。

工業地帯で道幅は広く、土曜で車通りも少なかったので、すぐにUターンして歩道に寄せてとめる。

急いで駆け寄ると、自転車は倒れ、
カゴから袋が飛び出し、
そしておじいさんが大の字で倒れた状態だった。

「大丈夫ですか?」と声をかけると
「大丈夫」と声があったのでひとまず安心。

「救急車を呼びましょうか?」というと
「いや、いい」という。

意識ははっきりしている。
袋からこぼれたおにぎりとガラケー。
おにぎりをポリ袋にもどして、自転車を起こす。
そしてガラケーを持って、「どなたかに連絡しましょうか?」というと
「大丈夫」という。

そうこうしている間に、
ご自身で上体を起こして座り込んだ。
身内の方がいないのだろうか?それとも身内の方は自分よりも体の弱い方かもしれない。
どうしようか。
と思っていたら、
「これも袋にいれておいて」とさきほどのガラケーを
渡されたので、袋に入れておく。

もう少し休みたいのかもしれない。

たぶん、

おもいっきり倒れたので痛いけれど、
救急車を呼ぶほどでもないし、家の人を呼んだところでどうすることもできない。
とにかくまだ痛いから、立ち上がるのは無理。
もう少しここで休んでから帰ろう。

そんな感じがした。

もう少し若い人なら、ここで無理して立ち上がってしまいそうな気がする。
「大丈夫です!一人で帰れます!」と言って内心、ああ痛いなぁと思いながら。

気を遣うところを間違えない。
無理をしない。
それが年の功なのかも。

幸い、歩道自体も広く、おじいさんがしばらく
座っていても大丈夫そうだったので、
「日陰に入って休んで下さいね」と声をかけ、
どなたかご近所の方が通りかかりますようにと祈りつつその場をあとにした。

帰りに同じ場所を通ると、
当然もう姿はなかったので無事に帰られたのだろうと思う。
とにかく大事に至らなくて良かった。

これから先、もっとこういう場面が増えるのかなと思う。
実際この件の前にも、道ばたに手押し車のおばあさんが倒れていて
声をかけると、すくっと立ち上がり、わりとお元気に去っていかれた。

時間の流れ方が違っていて、
自転車のおじいさんも手押し車のおばあさんも
私から見ると倒れている時間が長く感じて焦ったけれど、
すぐには立ち上がれないしすぐに立ち上がる必要もない。
誰かのペースに合わせる必要なんてないんだ。

誰もが高齢者になる。
何かあったとき、助けてもらうほどでもなくても、
「いざという時、誰かがいる」
「いつでも誰かが見守ってくれている街」
という安心感はこの先も持っていたい。
大人も子供も誰もが助け合って生きている。

自分が高齢者になった時、若者は大人や高齢者に
やさしくしてくれるかなぁ。


・・・ひょっとしてこれからはAIが見守ってくれる街になるのかな(笑)。


それから、誰かが困っている時、声をかけること。
これは普段から社交的かどうか、は関係ない気がする。
もっと人間の本能的な部分。

でも、もし声をかけられなくても自分を責めなくて良いと思う。
気持ちを向けたその「気」は誰かの「気」をとめ、
きっとその誰かが来てくれる、と私は信じたい。
一番悲しいのは気にも留めない、無関心。

AIに頼り過ぎて考えることをやめてしまったら、
それこそロボットなんじゃないか・・・と、
なんか上手いことを思いついたなぁとほくそ笑む昼下がりでした・・・(笑)。

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