寄付ビジネスの色

4社のコンペに参加して僅差で落ちたとき、提案したクリエイティブの一部を採用したいと連絡が来て、迷った末に断った。その時の先輩に「お金に色はついてないんだからもらえばいいのに」と言われたことが心に残っている。

電車で「8億人が並んでいます」というポスター広告を見た。地球規模で見ると食糧難らしい、ということはわかっている。でも自分が生活するお金の一部をこの寄付に回したところで8億人どころかせいぜい1人分の数日分くらいにしかならない。人は何十年も生きることが前提であれば、とうてい足りない。子どものころ、終生責任が取れない善意はダメと言われて泣く泣く拾った動物を戻しに行った経験はないか。それが正論ならば、8億人の行列には手が出ないだろう。

10年ほど前、クラウドファンディングのヒアリングで、小中高大それぞれの時代で今も繋がっている友達の数、SNSのフォロワー数、借金を申し出たら貸してくれそうな親戚や、近しい友人の数を次々と聞かれ「人は遠い目標には支援しない。あとちょっと、にお金を出すのが人情というもの」と言われた。目標額を達成したら「PRコンサル料」として40%を差し引いて振り込むのに「もし100万円集めたければ最低でも80万円は友人知人から集めて。自分のプロジェクトならそのぐらいの情熱ありますよね」と言われ、最初から最後までなじめない話で、クラファンなんかを思いついた自分を恥じた。

かつて、リストにある特定の子を選んで毎月2,000円を振り込むという開発途上国の子ども支援があったらしい。それに参加していた女性が「自分はナントカ国の○○君を育てている」と吹聴していて、胸くそ悪い、と怒っていた友人がいた。寄付の額よりも、気持ちよく自画自賛するコストが2,000円という安っぽさへの怒り。善意と呼ぶにはあまりに図々しい。

お金には色がついてなくても、お金をとりまく気持ちには色がある。ビジネスのエンジンに寄付を組み込むのは「商売」とは別モノと思うべきで、そこに無自覚な人は信用できない。日本人全員が寄付しても8億人なんか救える手段はない、とは思わないところに、他人のカネをあてにすることに慣れきったゆるさを感じてしまう。汗して働くより「運用」を薦める今の日本は、お金の色に無頓着な人を増やすだろう。やっぱり自分は、ささやかであっても自分の力で価値をお金に変え、困ってる目の前の人に手を差しのべることができる人生でありたい。


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