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詩誌「ラ・ヴァーグ」イベントレポ②〜詩論


注※下書きを書いたのと、編集して発表するのに1ヶ月のタイムラグがあったため、考えに変化があり、ところどころ、元の文章に反省の念がわいて、編集中に書き加えています。。

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こういうのは興奮冷めやらぬうちに書いとかないとだったのだけど、日が経ってしまった。。
最近、書いて表現することに対してためらいが出てきた。(やっぱり子育て中の私にとって1番大事なものは決まっているから。。)note、Twitter、ブログ…ちょっと書く手が止まって、感情をぶつける相手がピアノになっている今日この頃です。
レポといいつつ、今回はほとんど論考だ。


①詩は中身より形なのか?

この疑問は、詩も、他の本と同じく「内容があるものでなければいけないのではないか」という考えから来ていた。だって「本」とは「contents=中身」なのだ。体は、人偏に本、というくらいなのだから。

↓現代詩手帖に大切な詩を送り続けて怒って書いた、超絶生意気な詩群


もちろん、本が「goods=モノ」であるという考え方もできる。むしろ、これから紙の本は
読むモノではなく、所有のためのgoodsになっていくとも言えるだろう。書き込むため、そばに置いておくため、手渡すためetc。


そして以下の2点が、私が詩の世界に足を踏み入れる前に、
「詩が瀕死状態にある」・「何か問題がある」と思った理由
だ。

a.書店に詩集が置いていない(詩集は売れない)

b.国民的有名な詩人は谷川俊太郎しかいない



(注:これを公開しようとしている今は、商業出版だけに価値があるわけではないと心から思うが)

aは、市場の成熟とも言える。世の中は多様性の時代で、メディアが作り上げる流行に乗るのではなく、各々の好きなものに直接アクセスできる時代だからだ。つまり、そもそも論、インターネットでいくらでも良質で最新の読み物が読める時代に、文章だけでメシが食える事自体にどこか無理がある。顧客は活字中毒者か、もしくは自分自身が書くための物々交換の状態になっている。出版業界はもはや、資格商法かファンビジネスだ(出版社の「お墨付き」という機能は、ネット読み物と比較する際の大きな点であり、大切だと思うが)。
文学や芸術を作り出すことも、受け取ることも、豊かな社会だからできる余剰である。だから不況の中、文章や芸術がお金にならないというのは正しいことである。そもそも、人間存在の根源的な意味に近い仕事ほど金にならないものである。育児、家事、介護、託児、教育、そして芸術。

だけど、資本主義経済において、文章をお金に変換することは、出版社という「営利目的の企業」に求められる、当然の姿勢だ。

名作のリメイクならともかく、これまでに無かった真新しさを求めていけば、どんどん内容は過激さを増していく。漫画は特に顕著だ。目を背けずにいられないコンテンツがその辺にごろごろ転がっている。濃縮されていくことが必ずしも善いことなのか、教育血筋の私には?である。
ただ出版が商売である以上、「売れる」ことは最重要命題だ。

そこで、bの案が浮上してくる。国民的スター詩人が必要なのだ。名前で詩集を売れる人が。

最近は、文月悠光さんがメディア露出をよくされてたりして、詩の文化自体が盛り上がってきているように見えている(だがもはや詩の世界の中にいるから、外からの視線はよくわからない)。
ただ意識して見ていると、国語の教科書には必ず詩が載っているし、子どもも授業で詩を書いている。俳句にいたっては、新しい季節が来る度に、水彩画の絵とともに一人一人の句が廊下に貼り出される。

ところで、私が最近出入りしているビジネス系サロンで出会った仲間との飲み会の席で、作家を目指していることについて、「前は小説や名言集を書いていたけど、今は詩を書いている」と話すと、「小説は、読めないよねえ。飛ばし読みができないから」と読書家の人が返してくれたのは嬉しかった。現代人の大半はせっかちだ。

まあ、現代詩手帖最新刊を見ると、詩が「サークルの中にある」なんていう指摘は、べつに半世紀前から行われていたことらしいけど。

私は、大衆向けの詩を書くつもりでいる。


②「詩は、知識に裏打ちされたものでなければ認められないのか?」
(=勉強しなきゃいけないのか?)

現在、詩の総本山である思潮社から出版され、詩の権威と目されている「現代詩手帖」に載るような詩の多くは、苦労や修行の跡が見える。つまり自分を矯正しようとか、着飾ろういう、意図のもとに「現代詩」にはまろうとする作品群。私はこの雑誌に載っている詩の大半を好きになれない。堅苦しさを感じるからだ。
初学者から見ると、なんだかなぁ、はぁ、と途方もなく思える。鈍器みたいな見た目は嫌いじゃないけど、これが、現代詩の「正統な主流」らしい。

詩と無関係だった頃、この雑誌を見て(呪文ですか?(ぽかーん))と思った。究極のマスターベーションを競い合って見せ合う、変態集団のように見えた。そしてその見解は、あながち間違いではないと、詩を少し勉強した今、再確認している。
しかしもちろん、中にはマスターベーションでありながらも、同時に相手を求めている詩もある。相手を求めている詩が、私は好きなようだ。

修行の跡について話を戻そう。私個人は、そういうものが(あるのかもしれないけれども)見えない、例えば茨木のり子さんや平田俊子さんのような詩の形態が好きだ。文月悠光さんも、いかにも「現代詩」っぽいけれど、もともとあの文体なのだろう。

「相手を求めている詩人」の代表格とも言える宮尾節子さんの詩は、練習はあまりなさそうだけれど推敲の後は見える。だけど、型に嵌ろうという意図は見えない。その肩の凝らなさに、文学界隈以外からの支持があるように思う。力の抜け方と、推敲の裏からも溢れてやまない愛。お会いしたことがあるからこそ、余計にそんなことを感じてしまうのかもしれないけど…。

(↓宮尾さんの朗読会レポ)


本題に戻ろう。。

私は自分の詩が「薄い」と感じている。もちろん自分の詩は嫌いじゃない。でも、厚みがなくて、尊敬には値しないと思う。ペラいのだ。まあ別に、尊敬されるために書いてるわけではないからいいんだけど…ただ世の中を変えたいだけ。しかし今のままで、現代詩手帖さんから認められることはないだろう、と思っている。

やはり尊敬される詩になるには「知識」が必要なんだろう。ラヴァーグのvol1に寄稿されている、川口晴美さんの「蜜蝋」という詩を読んで、なんとも言えない分厚さを感じたのだ。
重いのに、重くない。私の好きな「ちゃんと伝わる」詩なのに、底知れないこの凄みはなんだろう??
この作品に、ラ・ヴァーグへのメッセージが含まれているのは間違いなく、「相手のある詩」でもある。私はこの詩を書いた人が気になってしょうがなかった。

だからイベント当日、川口さんとお会いして、お話までできたのはとても嬉しかった。川口さんは大学の先生だという。そりゃあ、知識は豊富だよな…と思った。そして彼女は、詩を宝石に例えた。詩を磨いていく過程は、宝石をピカピカに磨きあげるようなものなのだ、と、話してくれた。
でも私は、(宝石のピカピカであれば、素人が見てもピカピカに見えるはずだ)と思ったからら、すかさず「あー、ワインみたいなものなんですね!」と自分なりの解釈を被せた。例えるならキラキラの宝石というよりは熟成ワイン。寝かせて、ツウにとっては美味しいようだけれど、素人からしたら理解できない味もあるから。
初学者の失礼な返答に、川口先生は若干ひいてしまったが、隣にいた思潮社の編集者の藤井一乃さんが「そうそう、まあ安いワインもそこそこにうまいんだけどさ、私くらい舌が肥えてくると、本当に上手いやつが飲みたくなるんだよねー!」と返してくれた。

ツウの思う「本当にウマイやつ」が、現代詩手帖にのるような詩なんだろう。

だけど、そんな努力しないと書けないような、資格商法ビジネスに則った詩が、大衆にウケるはずなくないか?
詩人が思潮社の方を向いて書いた詩。私はあんまり好きになれない。

私は今、ラヴァーグの女性たちの、瑞々しい詩に期待を寄せている。これからも、ラヴァーグの詩人さんたちと、詩での交流を続けていきたいと思っている。


イベント後に出版されたvol2号

本日も不遜な文章大変失礼しました。

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