結婚しろ!
結婚しろ!
古瀬詩織
はじめに
■迷える若い男の子たち
とある男子高校生主宰の、オンライン哲学カフェのお題です。
ーー「結婚は必要か?」
「奥様思想家」を名乗り、活動している私。彼の問いについて、語り合うことに、とても興味が沸いて申し込んだのはいいけれど、考えているうちに自分の中で解が出てしまったので、その日の内にキャンセル!(キャンセル待ちをしていてる方がいたのもあり・・・汗)
主宰者の彼に、「早めに出版します!」と宣言をしてきたので、こうして急いで原稿を書いている次第です。
それ以前にも、カラオケバーで知り合った新卒2年目の男の子にも聞かれたことがありました。帰路、送ってくれるとき、
「なんで結婚したの?」 と。
子持ち人妻が夜中まで一人で飲みながらぐだぐだ歌ってたら、ツッコミたくもなりますよね。
最近の流行歌「晩餐歌」(tuki)。大切な恋人がいても、他の人に目移りしてしまう、自分の未熟さを切なく歌いあげる、素敵な歌ですよね…。目移り、しちゃうことってありますよね…、わかります…。
永遠の関係を誓い、1対1の絶対的関係を結ぶのが結婚です。
本書では、法律や既成概念なんて二の次です。あなたの心がどうしたいかの話をしています。
迷える若い男子、
迷えるアラサー女子、
人生の岐路に立つアラフォー未婚男女に。
結婚しろ!
本書で私は、そう背中を押したいと思います。
===
おことわり
ここでいう「結婚」には、「同性婚」「事実婚」も含みます。私は思想家であり、政治家でも学者でもないので、あくまで吉本隆明の提示したような「対幻想」の具現化である結婚が、おひとり様天国の令和の日本でも、果たして必要なのかどうかについて、言及します。
本書は、個人の体験に基づく哲学エッセイです。
私は宗教や哲学を修めてはいませんが、41歳の今まで、自分なりの道徳を持って、真っすぐにそれを実践、検証してきました。そんな「体験知」をお伝えしたいと思います。
ただし、体験知だけでは説得力に欠けると思うので、歴史や宗教も交えながら、なんとなくアカデミックにレポートしたいと思います。
哲学とは、哲学書を読むことではなく、
自分で考え抜くこと
古瀬詩織
第1章・1対1のロマンチックラブ婚という無茶ぶり
■「2位じゃダメなんですか?」
民主党政権が事業仕分けを行っていた時分の、連邦議員の強烈なセリフ。真っ白なパンツスーツの彼女の、キリっとした視線が浮かんできます。仕分けの評価はよく知りませんけれど、
そう、2位じゃダメなんです。
やはり「1位にしかないない価値」はあります。ブランディングにおいてそれは大切なことだと、誰もがSNSデータを分析するような時代ですから理解してもらえるでしょう。
突き抜けた個性の価値って大きいんですよね。
*
結婚における「2位」と言えば、日本では、妾や愛人という存在が、昭和の時代までずっと当たり前のように存在していました。「浮気は男の甲斐性」「色は芸の肥やし」。そんな伝統的な言説が、平成時代には、週刊誌でとことんつるしあげられたものです。不倫なんて、巷にはそこらじゅうに転がっていたのにね。
ただ、女にだけは伝統的に、厳しい社会的・法的制裁がありました。
この週刊誌の不倫のつるし上げには、2階建てで考える必要があります。
1つめの前提は、出版業界の伝統的ビジネスモデルです。
性的なスキャンダルは大衆受けするので、昔からマスコミはこれを格好のネタにしてきました。文春のような文芸週刊誌は、文学界隈の人たちが立ち上げたもので、著名人の醜聞を暴露し批判することで、売り上げを伸ばそうとしました。文学の制作側の本質は、共感を求めた暴露精神です。与謝野晶子のデビュー作も当時背徳の恋を歌い炎上し、ベストセラーになりましたし、「文学は、過激でなんぼ」の作家と、その共同体であるマスコミの、元祖炎上ビジネスなのです。
2つめは、法改正と、一般的な価値基準の、時代的変遷です。
一般大衆の「夫婦」の規範意識の改定には、4世代必要でした。「夫婦」とは、もっともプライベートで、もっとも本能に即した法的関係だから、少しずつしか変わらなかったのです。
団塊の父母世代で妾制度が法的に禁止されることによって、その法を子ども時代に学んだ団塊世代が大人になって夫婦になると、「それって、ルール違反だよ!」と妻は堂々と怒りはじめました。
悲しんだお母さんの味方である、団塊ジュニア世代のマスコミは、お母さんの恨みを晴らすかのように法律違反である不倫を憎み、激しくバッシングしました。
それをリアルタイムで見ていた令和の若者達は「不倫は絶対しない」と心から思うようになりました。
「2位」がいちゃ、だめなんだ。1位しか存在しちゃ、いけないんだ・・・と。
不倫報道なんて、ただの劇場商売だったはずなのに、判断能力のない子どもにとって、テレビ等のマスコミは、価値観の形成に大きな影響を与えます。
不倫だけではありません。令和の子ども達は、大人達がつくる、戦争や捻じれきった政治などの絶望的現実を、毎日のように見せられています。
たしかに不倫は法律で禁止されていますし、誰かを必ず傷つけます。
そして、SNSの一般普及により、今や「国民総マスコミ」であるだけでなく、「国民総著名人」の時代です。
だから、社会生活だけでなく、
法律をしっかりと遵守して、恋人関係も、夫婦生活も、子育ても
その枠組みの中でホワイトに行わなければならなくなったのです。
■ロマンチックラブイデオロギーってどうよ
「ロマンチックラブイデオロギー」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか?平たく言うと、「キリスト教的な性の倫理意識」です。
すべての一対の男女は、愛の下で性的関係を築くため、結婚は一夫一婦の形態をとります。男女ともに浮気は許されません。
本来の聖書の教えでは、避妊も、中絶も、婚前交渉も、離婚も許されませんでした。生殖を目的とする場合以外は慎むものとされてきました。
しかしこれは、女性の人権意識の高まりによって、国家や自治体によりますが、次々と開放されてきました。
ロマンチックラブイデオロギーは、我が国へは明治時代に開国とともに、輸入されたものです。つまり現在の私たちの民法には、日本古来の「イエ第一規範」のさらにその上に、キリスト教的倫理意識も乗っかっているという状態です。
たしかに一夫一婦制度は、とても美しく公明正大で、秩序ある社会を築くには素晴らしい思想だと思います。
しかし、今の日本ではもう、「これ、無理があるだろう!!」という批判が相次いでいます。
そりゃそうですよね。だって処女からは子どもは産まれません。
キリスト教では、女に夢を求めすぎていたのだと思います。ただ同時に、男性もまた、見境のない性欲は律しなければならないものだと認識してきました。性への堕落は「ソドムとゴモラ」「ロトの妻」の物語に象徴されるように、決して許されないものでしたし、娼婦も忌むべき存在だと考えられてきました。ただ、元娼婦とされるマグダラのマリアがイエスに許され、結局最後まで近くに仕えていた物語の解釈は今でも定まらないところです。
*
ずいぶんと聖書の文脈にツッコミを入れてしまいました。私が今、恐れ多くも、ここまで言うのは、今キリスト教に揺らぎが生じているからです。
UU(ユニテリアンユニヴァーサリスト)が、マサチューセッツを本拠地としてアメリカで増えています。UUはキリスト教から派生したものですが、三位一体の考え方(キリストの神性)を否定しています。確たる教義はなく、お互いのスピリチュアルな成長を応援し合います。活動としては、様々な宗教の多元性を重んじ、禅をしてみたり、賛美歌を歌ってみたり「なんでもあり」宗教といったところでしょうか。
キリストの神性を否定してしまえば、聖書の解釈はずいぶん変わってくるでしょう。
キリスト教への信仰の綻びは、つまりはキリスト教的価値観の揺らぎです。
今でもガザ地区で、キリスト教とイスラム教との聖地をめぐる対立が起きています。しかし近年、イスラム教信者はますます増加しており、キリスト教から改宗する知識人もいます。将来的には、キリスト教人口を追い抜き、2030年には世界人口の26.4%がイスラム教徒になるという予測もあります。
ちなみにイスラム教にロマンチックラブイデオロギーは存在しません。一夫多妻が許されています。
外資系企業で働く私の夫は、家事はポンコツな上に人格破綻者の浮気妻に懲りて、「奥さんをもう1人もらってもいいのなら、もう1人もらう」とおっしゃっています。私も、賢い奥さんがもう1人来てくれたら、子育ても家計管理も、協力してできるのになあと妄想することがあります。
私はもう40歳を過ぎた経産婦で、性欲も落ち着いてしまい、夫を一人で性的に満足させる自信がなくなってしまいました。「風俗行ってもいいんだよ。そのかわり私ともしてね」と言っています。風俗に行ってるかどうかはわかりませんが、今のところちゃんと私ともしてくれます。
■イスラム教の性的規範
我が家は専業主婦家庭で、恋愛結婚ではなく、ネット婚活で結婚したので、合理的なイスラム世界の男女関係に勝手に親近感を感じています。
また既に私は貞操を破ってますし、夫に浮気されても文句を言える立場ではとうにありません。
イスラムの人々は、1日に何度もお祈りしたり、ラマダーンなど宗教が生活様式の一部になっているため、コーランの思想がしっかりと身体にまで沁み込んでいます。ちなみに、夫も神社の跡取り息子として、代々神主の家で手伝いをしながら育ったので、神道に対しての信心深さがあります。
コーランには、男性は、複数の妻を娶る場合、平等に接することと定められています。それが出来ないなら重婚はするな、とも。
私たちの新婚旅行では、イスラム圏のエジプトに行きました。3日ほど行動を共にした現地日本語ガイドさんは、ヒジャブを巻いたエジプト人女性でした。少し仲良くなってきた頃に私は彼女に、
「一夫多妻性についてどう思うか?」尋ねてみました。すると
「女性たちは、『妻が多い男性の方が魅力的だ』と思っている」とのこと。
私は、独身時代ずっと2番手体質で、(いい男は大抵すでに他人のもの…)とずっと感じてきたので、妙に共感しました。
ちなみにガイドさんのおうちは、夫は1人。息子が2人いるとのことでした。
語学が堪能で2児のワーキングマザーは強いなあ、と思いました。
ここからは、コーランに定められた慣習の話を少しします。
イスラムの教えでは、結婚するときには、男は持参金を用意せねばならず、その中には、婚姻費用だけでなく離婚費用が予め含まれています。離婚したとしても女性がお金に困らないためです。
つまり、離婚してもシングルマザーが急に路頭に迷うことはないのです。
また、結婚生活において生活費は全て夫に責任があり、女性がもしも働いた場合、そのお金は女性が自由に使って良いことになっています。
生理中にはラマダーンへの参加も免除されます。
女性の貞操は物凄く厳しいけれど、「大事にされている」のは間違い無いと思います。そう考えると、イスラム女性が身に付けているヒシャブの意味も、よくわかるのではないでしょうか。
婚姻の義務の中には、家事や出産は含まれません。だからお手伝いさんを雇ったりもします。ただただ、夫のセックスに応じることだけが義務です。
そして、イスラムの世界観では、セックスそのものが、神事のように捉えられています。射精の瞬間も神に祈るんだとか。女性も信仰心があるから、神聖な行為だと思っているでしょう。セックスで神と一体になる、っていう感覚は、最近日本でも流行りのスピリチュアルそのものですよね…一周回って新しいです。ちなみにうちの夫も、私のこと神聖な存在だと思っている、と1回だけ聞いたことがあります。
ただ私は、イスラム圏だったら、とっくに死刑になっていますけどね。。
■ビッチというコロンブスの卵
日本が古来から性的におおらかな国であったのは、よく知られていることです。
吉原のような公的に認められた遊郭や、高嶺の花である花魁がいた日本の性文化は、世界から見ると異質です。従軍慰安婦の問題も、公娼文化から来ていたのは間違いないと思います。戦争には性暴力は付き物で、それは普通、個人的な問題に帰すのですが、日本は公に大規模にやってしまいました。だから国が責任を負わなければならなくなったのです。
日本では現在でも、本番行為は法的に禁止であるものの、ソープをはじめとする性風俗産業は盛んです。外国にも、日本のソープランドを真似たサービスができ始めているとか・・・。女が性で商売をする・・。これは日本の恥部なのでしょうか?
第二次世界大戦が終戦した日本では、パンパンという女性が登場しました。アメリカ兵を相手にした売春の個人営業=私娼です。GHQの指導で、戦前の公娼に対しては赤線という、売春婦の営業規制区域をつくりましたが、GHQ本部近くの有楽町や銀座で営業する私娼に対しては、買春するアメリカ兵を黙認しました。いまでも銀座には高級クラブが沢山あります。
また多くの日本人女性が、在日アメリカ兵と結婚して帰国時に一緒に渡米しました。占領軍人の妻になることは、どの国にもままあることですが、パンパンの存在は、珍しい現象でした。1964年に開催された東京オリンピックでは、日本人が外国人にまた節操なくアピールするのではないかと、心配した日本人男性も多かったのだとか。
私は環境適応能力だけは高いので、敗戦時にもし若い独身の女で、近くにアメリカ兵がいたら好奇心から英語を教えてもらったりして、何かのはずみで恋に落ちたかもしれないなあと思います。オンリーさん(パンパンの中でもその男専用の娼婦)を目指して、惚れた腫れたと「恋愛」をしたかもしれないなあとうっとりと節操のない妄想をしてしまいます。まあ、外見に自信がないので、派手な格好はしなかっただろうなと思いますが。
ところで、“恋愛”という単語そのものが、日本に誕生したのは、明治時代の文明開化と同時期です。そして、そもそも「ロマンチックラブ」の訳語を「恋愛」としたことについて、研究者の中でもいまだに論争があるほど、恋愛というのは日本人にとって、不確定なシロモノなのです。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」とでも訳しておけと生徒に言ったんだとか。
“love=愛”って、一口に言っても、エロス(性愛)もあれば、マニア(偏執愛)、ルダス(駆け引き的なお遊びの愛)、ストルゲ(家族愛)、そしてアガペー(人類愛)まで多岐に渡ります。それを踏まえると、漱石先生の「月が綺麗ですね」はお見事ですよね。
さて、日本人女性の堂々とした自由過ぎるビッチぶりをずいぶん書き連ねてしまいました。「ビッチ」という言葉には、ずっと嫌な言葉のイメージがありましたが、最近すこしだけ、変わりつつあるように思います。「性に奔放な女」というだけでなく、「性に積極的な女性」、あるいは「性に自己決定権をもつ女性」と言いかえることもできます。まあ、妊娠したときは自己責任になってしまうのですけど。
東京ラブストーリーの「カーンチ、セックスしよ!」は、別に日本の長い歴史においては、新しくもなんともない現象だったのではないでしょうか。
■宗教がないなら、法律で国民の「性道徳」を形成するしかなかった
江戸時代、経済力と政治力を持った大奥では、すでに今で言うディルドが流行っており、共同体のお祭りでは乱交もあったとされ、日本独自の大らかな性的イデオロギーを形成していました。キリスト教圏では忌み嫌われる娼婦たちも、吉原のような遊郭では、「おいらん」とこの姐さんで、市中の男女が見物に来る道中でモデルウォークを行う、禿(花魁の世話をする見習い少女)たちの誇りであったのです。公衆浴場は混浴だったくらいなのですから、不倫も当然ありました。
しかし開国後、文明国の仲間入りをするためには、この性倫理を改める必要がありました。キリスト教圏の人達が見たら心臓止まるかと思うくらいヤバイ人達だったので。
かといって、今の日本で、地域乱交なんてできるはずもありません。近所に住んでいる人は知らない人だらけでしょうし、特に女と、その両親が、「恋愛」という上品な概念を知ってしまいましたからね。
だけど今でも都会のクラブハウスでは、喧噪の中で、ナンパが横行するような、乱痴気騒ぎの夜が繰り広げられているのかもしれません。
私も一晩くらい、そんな恋してみてもいいかもなぁ。たぶん、「身分証明書を見せて」って相手の男に言っちゃうだろうけどね。ついでにその場でSNSとか過去まで遡っ確認しちゃうと思う。それでも萎えない男じゃないなら、こっちから願い下げです。
性欲旺盛な若者たちの中には、マッチングアプリで出会ったばかりの身元不明の人とセックスをする人もいます。
童貞処女を見下す“恋愛”強者たちも普通にいます(ただしこの現象は、平均結婚年齢が、本能では考えられないほど遅いですから、仕方がないのかもしれません)。
素人童貞は恥ずかしいから、風俗にさえ行けずに童貞を拗らせる人も沢山います。
あげく、「女なら誰でもよかった」殺人が起きたり、デートレイプした相手を、親子で殺害する女の子も登場しました。
そんな文脈の中、「性的同意」が法律に組み込まれたのは良いことだったと思います。
でも、じゃあ、僕たちどうやっておっぱじめればいいわけ?
■バキ童という宮沢賢治的生き方
明治時代に輸入されたロマンチックラブイデオロギーを一番はじめに実践しようとしたのは、文学界隈の人達です。当時の女流文学に、その痕跡が残っています。与謝野晶子や伊藤野枝といった雑誌「青踏」に文を寄せた作家たちです。
樋口一葉のような、いわゆる美しく清い”恋愛”小説もありましたが、詩・短歌は、小説よりもずっと、むき出しの本心が表れるのです。平塚らいてうの後任で「青踏」の編集長となった伊藤野江は、自由恋愛を体現しつくした挙句、28歳で当時の恋人でアナーキストの大杉栄と一緒に、憲兵に殺されてしまいました。嗚呼怖い。
そんな中、清く清く生きようとした文学青年がいました。宮沢賢治です。宮沢賢治は生涯童貞を貫いたと考えられています。賢治は、初めて恋をした女性にフラれ、それ以降は、女性側から好意を寄せられても頑なに断りつづけました。ずっと初恋の人が忘れられないから、1対1の清い恋愛はもうできないと考えたのでしょうか。それとも、今で言う「蛙化現象」だったのかもしれないですね。
農民とともに高潔な暮らしを実現しようとした賢治に、高瀬露という教員の女性が献身的に一途なアプローチをしますが、頑なにそれに応えようとはしませんでした。その時に書いた賢治の詩がこちら。
【聖女さましてちかづけるもの】
聖女のさましてちかづけるもの
たくらみすべてならずとて
いまわが像釘うつとも
乞ひて弟子の礼とれる
いま名の故に足をもて
われに土をば送るとも
わがとりき来しは
ただひとすじのみちなれや
自分を誘ってくる女をまるで悪魔のように敵視までして頑なに拒絶しています。
たしかに、旧約聖書では、イブはアダムをそそのかして楽園を追放させましたし、日本神話でも、イザナミ(女神)の方から先に愛の言葉を告げると国産みに失敗し、イザナギ(男神)から言葉をかけるというやり直しをわざわざ行いました。女から誘うと悪い結果が起きると、神話に刻まれているのです。だから、プロポーズを女からするのは気がひけるのでしょう。
人気YouTuberに「バキ童」さんがいらっしゃいますが、私は男性としても素敵だと思いますよ。もちろん「童貞」というブランドで食っているから、それこそ悪魔に思われてしまうでしょうけど。蒼井優さんが山里亮太さんと結婚したときも、全く驚きませんでした。モテないキャラが私には全然理解できませんでした。
女は、男の何に惹きつけられると思いますか?結局カネだと思いますか?
違います、女は男の「能力+信頼」に惹きつけられるのです。それが、金や安定に恋しているように見えるだけなのです。性的本能は、お金が存在しなかった太古から、大して変わらないのです。
だけど今の日本では、みんなお金が欲しいはずなのです。でもそれは、お金そのものが好きだからではなくて、お金の先に見える夢や幻想に恋しているだけです。そして、夢や幻想しか見ない人に魅力を感じるのが、お金を稼ぐ自信のある人たちです。
生活力に自信のある女性の中には、男に経済力よりも才能を見出し、ダメ男とされる売れない芸術家をイチから育てることも可能です。Mr.childrenのボーカル桜井和寿さんと結婚した当時マネージャーの元奥様も、そんな女性の一人だったのではないかと思います。
アナウンサーの山崎夕貴さんとおばたのお兄さんも、なんだかそんな雰囲気がありますが、おばたのお兄さんは、すでにデビューしていたからヒモではないですが。
私はお金の先の夢や幻想しか見えない人間なので、ヒモ男に惹かれることはありませんが、そんな恋の形もあるんだろうなあ、と思います。経済力がある女性は、どんな男でも選べてうらやましいです。ですが、やっぱり私のような「なんにも出来ないお嬢様」にも需要はあるのです。
第2章・日本に流布されるフェミニズム思想の壁
■上野千鶴子のつよがり
「おひとり様」を日本のスタンダートへと推し進めた上野千鶴子氏は、「愛されることよりも、愛することの方が人生をずっと豊かにする」と主張しています。しかし私は、これは強がりだと感じています。親に愛されなかったとか愛されたとか、そんなことをいつまでも気にしているのは、親から受けた傷を、まだ癒やすことができていないからです。
親以外の人間から心から愛されることで、人は生と死の恐怖から逃れ癒されるものです。恋愛はたしかに自分を豊かにする、素晴らしい経験です。愛し愛され、ハリネズミなのにくっ付いて互いを傷つけ合いながら、自分への理解を深めてトゲを減らしていくことができます。
「愛される経験」の最たるものは、子育てです。子どもは、なぜかわからないけど無条件に親を愛してくれます。どうしようもなく、「親としての私」からの愛を、欲してくれる存在です。私という人間存在のすべてに、全人生をかけてぶつかってきてくれる存在です。そんな子育てで、人間が豊かにならないはずがありません。
異性から心の底から愛される経験も、間違いなく自分の心を癒します。惚れた腫れたのどたばたエロス劇なんかではなく、長い年月をかけて育まれる愛もあります。始めに誓った“永遠”が、幻想かもしれないとはわかってはいても、その“永遠”の枠組みの中でしか実践しえない人間関係もあるのだと思います。死ぬまで離れないのだという覚悟の中で、どんな問題に遭おうとも、血の繋がらない人と辛抱強く一緒にいるには、強い意思が必要です。ときには許せないと思うことや、無意味だと思うこともあるかもしれません。
だけど、伴侶の目の奥の奥にまで入り込んだ自分を覗き込み、それでもなお「この人が自分を愛している」と知る経験は尊く、自分の人間存在のすべてが報われ、癒される体験です。
■弱者男性の存在
私は、知識人男性とご縁があることが多く、近くで彼らを観察してきました。私は、知識のない人間なので、彼らを尊敬しています。また、知識などなくても40年間何不自由なく生きてきました。
ところで先生は、「賢い」ということの破壊力を自覚しているのでしょうか?
自分より賢い子どもを、なぜ愛と時間を絞り出して自己犠牲してまで22年間も養育しなくてはならないのでしょうか。とっくのとうに自分より賢い子どもを、なぜ。もしも、愛された実感がないのだとすれば、それは自分の出来が良かったからでしょう。「この子は、自分の世話なしでは生きていけない」、そういう実感こそが保護欲をどうしようもなくくすぐるのです。男女関係とてそうです。それを共依存と呼ぶのはいかがなものでしょうか。それこそ、個が確立されていない人間の戯言ではないでしょうか。
私はおそらく、異性の親とのルダス的愛において、ずっと勝ち続けてきたのだと思います。また、異性の親だけでなく、地域や共同体の人間からもアガペーを受けて育ってきました。それが「何にもできないお嬢さま」の正体なのだと思うのです。何もできる必要がなかったからです。必要こそ発明の母です。ただし芸事は好きで、美しいものが好きだった自覚はあります。
日本人の知識人の男は、「この人のために頑張りたい」と思える女を求めているだけなのではないかと思うのです。なにも女を下に敷きたいとか、女と争いたいだなんて思っていない。最初から、お母さんという女に、白旗を上げているのです。ほんとうは女に、「自分を叱ってほしい」「可愛すぎて負けたい」庇護欲に溢れた生き物なのです。その結果生まれたのが専業主婦という存在だっただけだと思うのです。
もちろん、都合よくその制度を利用し、支配欲にかまけて女を家政婦兼遊女と見なした男もいるかもしれません。しかし、女だって男を財布と見なして、男が稼いでくるように仕向け、操縦していたりもします。
その昔、アラビア語圏の人々が、日本のことを「ワクワクの国」と呼び、こんな絵を描いたという説もあります。
私にはこれは、男たちがなんの意思もなく女に食べられている図に見えてしまうのです。当時、「人間」は、男のことでしたから。おそらく、果実は女性を表していると考えられます。
数字に聡いアラビア語圏の人達から見ると、日本人は唖然としてしまうほど奇怪な人たちに見えてしまったのでしょう。そして、確かに「人間」は食べられていてゾッとするけれど、ワクワクの国そのものは非常に平和な国として描かれていると思います。
精神医学の祖であるフロイトは、精神分析学において、生きることへの欲動をリビドーと呼び、理論の上で性的欲求を重視しました。そこには、女児ははじめ、自分にもペニスがあると思っているが、成長過程で自分にペニスがないことに気付きがっかりし、子どもを産むことを欲するようになるというストーリーがあります。
しかし私は、日本でだけは男女が逆、つまり男児がペニスを持っていることにびっくりするのだと考えています。つまり、「ペニス羨望」ではなく、「まんこ羨望」なのではないでしょうか。
心理臨床において、日本の母性文化の特異性に頭を抱え続けた河合隼雄先生は、フロイトと学術的に決裂したユングの弟子であったため、フロイトの理論は重視しませんでした。実際、ほんの数年前までは、日本の心理臨床の世界では精神分析には懐疑的な治療者が多く、認知行動療法などの理論的な治療法が主流になっていました。これは、フロイトの言う精神分析理論が、日本人には性別に関して言うと、まるであべこべな理論だったからなのではないかと、私は思います。
これだけ精神的権力を握っている女性が、お金まで稼げるようになったら、保護欲を感じろという方が無理な話ではないでしょうか。まあ、保護欲なんて感じられてたまるか、と女性フェミニストなら思うのかもしれませんけれど、弱いものいじめをしてきたのは他でもない ミソジニーにまみれた、賢い貴女達なのではないですか。
■与謝野晶子のつよがり
日本のフェミニズムに、良くも悪くも大きな影響をもつ与謝野晶子。彼女は妻子ある与謝野鉄幹を略奪愛で結婚し、12人の子どもを産み育てながら作家の仕事に精を出しました。まるで夫の気持ちを離さないためかのように、狂ったようにずっと妊娠しつづけていました。もしくは、妊娠していない状態だと、他の男に目移りしてしまう自分が怖かったのではないか?と訝ってしまいます。なぜなら私も、25歳~40歳まではずっと、夫の子どもを妊娠していない状態にあると、他の男にもすぐに恋をしてしまっていたからです。だからと言って、子育てには18年間かかるのです。今手元にいる子どもの先の人生を考えたら、そんなに産めるはずがありません。大体、素直な心をブログに書き綴ってお金が儲かるなんて商売は、今の時代成り立たないのです。
晶子の母性保護論争には、「貞節」という単語が繰り返し繰り返し出てきます。それだけ流布させたい重要な単語ではあるのでしょうけれど、まるで自分に言い聞かせるように私には見えてしまいます。当の夫の鉄幹は浮気を繰り返していましたが、男性の浮気は生物学的にしようがないのだ、と主張しました。
■奥様の告白
「結婚」
私を堰き止めて
どうか
私が散り散りになってしまわないように
私を囲って
守ってください
私、誰のものにでも
なってしまうから
怖いの
どこにでも根付いてしまえるから
誰のものにもなれない
あなたに
守られたいのです
賢くて堅い
強くて硬い
石になれたあなたから
いっときの永遠でもいいから
私は結婚後の後出しポリアモリー(ていうか人類が大好きな)人間です。不倫はむしろ自然だと考えています。
多数派を占める、恋愛に一途なモノアモリーの人からすれば非難轟轟でしょうけれど。だけど、少なくとも男性で、心の底からモノアモリ―の人なんているのでしょうか?
生理的現象としての勃起がある以上、素敵な女性対して身体は素直に反応してしまうでしょう。
また、女性の性器にも男性とおなじ陰茎があるのです。クリトリスの存在です。この器官は、陰茎と同様ですから、性的刺激があれば勃起をします。イケメンにきゃあきゃあ言ってしまうのは、男性が美人に反応してしまうのと、全く同じ現象です。勃起するからと言って、一生一緒に過ごしたいかというと、それはまた別の話です。女にも、セックスに向く男と、生活に向く男の区別があるのです。浮気は男だけの甲斐性ではないし、色はたしかに芸の肥やしなのです。それでどうするかは、お互いの自制心でしょう。
ちなみに、女はクリトリスの勃起が、周囲にはわからないので勃起をコントロールする必要がありません。男性はコントロール能力を身に付けないと社会で生きていけません。私は男性の自制心を尊敬します。ただし、女には、男にはない器官があります。それは子宮です。子宮の声は、クリトリスの声とは違います。
昨年2023年に、評論家の荻生チキさんが国内のポリアモリー実践者のルポタージュ『もう一人、誰かを好きになったとき』(新潮社)を上梓されました。これは非常に画期的な本で、これを機にポリアモリー界隈は議論に盛り上がりを見せています。
ポリアモリーにもいろいろあって、単純に遺伝子の声に素直に従った結果、いろんな人とセックスをするのが自然な状態だと捉える、ビッチやヤリチン、選択肢に恵まれすぎて一人に決めきれない人、などなど。私の場合は、独身時代はお付き合いしている人第一主義(義理人情的モノアモリ―)で、目移りすることがあっても、頭の中から振り払っていました。それで、恋人とうまくいかなくなればお別れをして、次の恋を探していました。ただそれも、当時はそれが一般的な価値観だったから、なのかもしれません。
今のように、スマホで手軽にセックスの相手を見つけられるような状況ではありませんでした。18歳までがちがちにフィルタリングされていたスマホに、急激に大量の18禁動画や出会いアプリが解禁される現在の世界線を生きる若者たち。それはもうびっくりして興味深々になってしまいますよね。
■不倫の精神分析
26歳で臨床心理士資格をとってから15年間人生の荒波を生きてきてこの方、人間にとって日常的にある感情の中で、最も厄介なのは「嫉妬」であると認識しています。
男の人であれば、「俺のモノに触るな!」という所有欲や、「俺の神聖な妻を汚すな!」という信心の問題があります。
女の人の場合は、少しニュアンスが違ってくると思っていて、「この泥棒猫!」って昭和の時代にはよく聞くセリフでしたよね。愛だけじゃなくて金の匂いが香ってきます。この時代は、ロマンチックラブイデオロギーが大衆に普及し、恋愛結婚をした世代でしたから、もちろん恋愛的な嫉妬もあります。しかし、この当時は専業主婦ーーつまり自分で稼ぐ能力のない、モーレツ企業労働者の妻(立役者)が多く、「排他的経済水域」を侵されるのを怒ってたとも言えるでしょう。しかし、昨今女性が経済的に自立が(少なくとも自分一人の食い扶持は稼げる程度には)可能になったので、「泥棒」っていう感覚はなくなりましたよね。もう「泥棒猫」は死語かなあと思います。
セックスと妊娠・出産に関連があると人類が気づくようになって以降、「妻がよその男を身籠って、それと知らずに育てさせられる」ことはずっと恐怖でありました。恐怖は、人間の行動に、嫉妬を凌ぐ影響力を持っています。しかし、現代は遺伝子検査という方法で親子関係を確かめることが可能です。
法律もやっと科学の進歩に追いつき、つい最近の2024年3月から、婚姻中にできた子どもは現夫との子どもであるということにされました。「新しい夫の子ども」とするには裁判手続きが必要でした。戦後日本は民主国家とされたとはいえ、まだそれだけ「イエ意識」に支配されていたことがわかります。もはやそんなの、男性にとっても迷惑な話ですよね。。もはや今の子どもは跡継ぎでも労働力でもないですし…
夫婦は、他人の独占を許される、排他的関係。嫉妬はしょうがないです。
「私の経済的排他領域に侵入するな!」「俺の妻を妊娠させるな!」
それはもっともだけれど、健康な男と女である以上、また働き盛りである20~40歳頃は、他の異性にもつい心動かされることはあるでしょう。そこから一歩踏み出すかどうかは人それぞれだと思います。夫婦は「家事」「お金」のプロジェクトに携わりますし、子どもができれば、「もう一度二人きりに」戻るまで、夫婦関係に変化があることも避けられません。
そして、異性への嫉妬よりもさらに厄介なのが、属性が近い人間への嫉妬だということも、社会を理解するのに重要な点です。同性のきょうだい、同期入社、ご近所さん、、、等々。それは社会的動物である人間にとっては恐怖に近いものなのです。だから異性への嫉妬よりも、同性からの嫉妬への耐性の方が、自然と身についているはずです。
そして、同性からの嫉妬にとらわれることなく伴侶を探せるのが、婚活という1本釣りの方法です。しかしこれはこれで、同性の中での自分の立ち位置というものが見えません。
■結婚という契約をかわそう
ここで例え話をさせてください。
「体」という漢字は、人偏に「本」ですよね。これは実に面白いと思います。本というのは、あなたが今頭に思い描いたような、長方形の物体のことではなく「コンテンツ=中身」のことを指しています。本の面白いところは、コンテンツ(contents)でありながら、それが物質の本(book)としても実存している点です(映画フィルムやDVDも同様です)。「作品」といい替えてもよいと思います。
ここで大胆な(サイコパシーな)例えをします。商業出版された本を、「結婚可能年齢になった人間」と置き換えてみてはどうでしょうか?
商業出版、つまり流通に載った本のことを、社会に出た人間、「大人」と捉えてみることにしましょう。
例えば、あなたが本を作って商業出版されたとします。
楽しみながら、しかし苦しみながら、たくさんの時間をかけて、自分の人生から搾り出した、自分の世界観を一冊の本として仕上げます。完成した時の喜びはひとしおです。まるで出産したときの爽快感と似ています。
それだけ長い時間努力したものが形になって、紙ベースで出版されて、「実存」としてこの世に存在するようになったとき、なんとも言えない嬉しい気持ちになるものです。
自分にとっては子どものような存在に思えます。自分の「アイデア(思考)」だけでできている物体。そして十中八九、誰かへの贈り物であるはずです。本は、何かを伝えたくて作られた「媒体」なのですから。
その本は、自分にとって、かけがえのない存在になります。自分の一部と言って差し支えないでしょう。
そんな「自分」が詰まった本が、誰か一人でもいいから、肉親でもない、他人が買ってくれたらどんな気持ちになるでしょうか。「大切にします」「ぼくのバイブルにします!」なんて言ってもらえたら、どんな気持ちになるでしょうか!天にものぼる思いがしそうです。
もし商業出版ではなく、流通を目的としていない自費出版で作った本だったとしても、他人に読んでもらえれば嬉しいものです。
商業出版した本が、もし一冊も売れなかったら、やはり悲しいでしょう。特に、もし周りにいる多くの人の本が、買ってもらっていたなら、尚更ですよね。みんな売れてないなら、ちょっと安心はするかもしれないですけど。
ところで、商業出版された本には、著者の自分以外にも、資本家がおり、装丁家や、組版、校正、印刷会社、取次会社、書店員と多くの人間の手がかけられています。出版すれば、市場という大海に漕ぎ出るわけです。
これ、ヒトと似ていると思いませんか。
子どもには親という資本家がいます。国家や自治体もそうです。親戚や、先生、学校を運営する人達、居住地域の安全を守る人達や、長い人間歴史の上に立つ法律や価値観。あらゆる大人が子どもを守り、育んでいます。そして18歳でようやく、社会にデビューする。それが「大人」なのです。
資本主義にどっぷり浸かった現代日本人ならイメージがつきやすいと思いますが、
結婚も、売れる という意味で同じです。 誤解を招くかもしれませんが 結婚は契約です。
売れ残り という言葉が女性に対して使われていた時期がありますが 男性だって独身男性はも同じ気持ちはあります。 何も女性だけが目ぐじらを立てる差別用語ではありません。
最近では、子供部屋おじさんでも岡崎体育さんのように才能を発揮するヒーローも現れてきて、ひきこもりやニートも、なんとなく、市民権まではいかなくとも、家族や社会が懸命に支えることで、基本的人権が守られた状態で生活しているとは思います。
肉親以外の誰かの、唯一無二のかけがえのない人になる。それが結婚です。
親子や兄妹、親戚のような血縁者以外に、「永遠の関係」をもてるのは結婚だけです。
「死が2人を分つまで、永遠に離れない約束」をするのです。これには、かなりの信頼を得ないとできないことです。もちろん、恋愛の熱病の勢いとか、打算的な立ち回りとか、内心では色々あるでしょう。しかし、日本人が個になるには、意思の力が必要です。
■お金教信者になっちまった日本の母
「結婚なんて、してもしなくてもどっちでもいいのよ」
わが子の幸せと、地球のためを思えばこそ母神はいう。
だけど心はフクザツ骨折している。
本音では、年をとれば安心したいし、報われたい
いくつになっても子どもは子ども
だから私はハッキリ云おう
失敗してもいいから、とっとといったん
結婚しろ!
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あとがき
日本人は皆、男神と女神の子どもであり、その精神は言葉によって形作られています。「おかあさん」「おとうさん」など、言葉の響きが、私たちの心に深く根付いているのです。私は詩人として、元臨床心理士として、神話をもとに詩作をしています。その中で、そのように気付きを得ました。
自由競争社会において、世代間の境界を意識することは非常に重要です。親世代と子世代との関係は、良くも悪くも避けられないものですが、これを理解し、適切に対処することが私たちの未来を明るくします。また、日本の精神世界は、まるで母親が作家である世界を生きているようなものです。自分のストーリーを生きようではありませんか。
恋愛結婚なんていうけれど、婚活は増えています。結局大切なのは、自由意志で相手を決めることにあります。明治時代に輸入した「恋愛=love」の正体は、エロス(情熱的な愛)、ルダス(遊びの愛)、フィリア(友愛)、ストルゲ(家族愛)、時々マニア(執着的な愛)なのです。病める時も健やかなる時も、「月がきれいですね」が大事です。
日本人はなんでも「道」にしちゃう。茶道、剣道、柔道、書道、華道、香道…。「恋愛」迷子は、エロス道やルダス道に陥っているのかもしれません。セックスも、研究していくべきものではないでしょうか。愛もセックスも、工夫を重ね続ければ道を究められると思います。日本はワクワクの木のようになるのが幸せの道なのかもしれません。姉さん女房がこれからのスタンダードになっていくかもしれませんね。実際、年上の妻と年下の夫の結婚は増加しており、全結婚の23.2%を占めています (Web Japan) (Manabink)。
性についての悩みも、オープンに向き合っていいと思います。童貞や処女を拗らせる前に、正しく手ほどきを受けることが大切です。愛を学び、性を研究することもまた、日本の「道」の一つです。茶道、剣道、柔道、書道、華道、香道と同様に、日本においてはセックスもまた、そういうものなのではないでしょうか。
結婚は、単なる形式や契約ではなく、継続的な支援が必要です。核家族や嫁姑の関係など、日本の男女関係は感情表現の問題に起因することが多くあります。そのため、時には別居用施設や簡易ホテルを利用し、チャットGPTのカウンセリングを受けることも一つの手段です。
法律については、AI弁護士に相談し、二人に適した形にカスタマイズすることができます。最近の契約結婚の流行は、結婚後の財産管理の不安を解消する一助となるでしょう。しかし、死ぬまで一緒に添い遂げるつもりでいるなら、相手に看取ってもらう前提で心を開くことが大切です。
日本にしかない専業主婦という制度は、無限の可能性を秘めています。所得が140万円以内であれば、リスクや課税も少なく、夫婦で社会起業に挑むことも可能です。家事をやらせるための専業主婦ではなく、相手の自己実現を応援する存在としての専業主婦は、非常に価値があります。特に、日本の漫画やアニメなどのコンテンツ制作は、世界に出ていける可能性が高く、夢を持つ人々をサラリーマンの方々が支援することが望まれます。
インバウンド需要が多い日本では、夫婦で民泊などの観光資源を活用するプロジェクトも楽しそうです。
お互いがお互いの「推し」となり、尊敬と信頼で結ばれる関係が理想です。夫婦で力を合わせて新しい挑戦をし、自己実現を目指すことが、真の幸福への道であると信じています
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