「麻薬卵」と「嘘松」、言葉の持つ力
オモコロ編集長である原宿さんがしたツイート、およびその後の顛末を語ったラジオ。
吉野家の偉い人が言った生娘ホニャララに関連する話題とのこと。
「麻薬卵」という料理自体は韓国由来で、生まれた時点で麻薬という言葉が入っていたらしい(やみつきとかその程度の意味らしい)。その文化をそのまま日本に輸入した結果として麻薬卵という言葉が誕生した。特定の商品名などではなく、誰が考えた名前なのかも判然とはしない。
俺は麻薬卵という料理を知らなかったけど、原宿さんの言う「強すぎる言葉で興味を惹こうとする魂胆は、吉野家の事件と共通するはず」という意見には賛成できる。良い悪いは置いといて、注目を集めたいがゆえに過剰に強い言葉が使われることはよくある。「無限キャベツ」とか「悪魔風」とか、もっと言えば「激辛」「極旨」みたいな汎用語句も根本は同じだろう。で、そこに「麻薬」という言葉を使うのはいかがなものか、というのが原宿さんの主張だ。
「麻薬卵」というネーミング。これは、しいてどちらかと言うならば、悪いものということになると思う。だがそれをもって違う名前に変えろとは思わないし、せいぜい「まあ俺はその言い方しないかな」くらいの温度感だ。これじゃなきゃダメだ、「麻薬卵」であることに意味があるんだ、という人はおそらくいなくて、「どっちでもいい」か「変えた方がいい」の両極かもしれないとも思う。
きわどいネーミングは世の中に溢れていて、それが許されるかどうかに明確な基準はない。「麻薬卵」も、その辺の居酒屋がその名前で出す分には文句を言う人はいないだろうが、セブンイレブンが全国で一斉に売り出すとなったらどうなるかわからない。俺はあまりいい気分にはなれないだろう。
オモコロ副編集長であるダ・ヴィンチ・恐山さんの日記。「嘘松」という言葉を使われるたびに、「おそ松さん」ファンは傷ついているという話。有料部分なので一部引用で。
これも難しい問題だ。ネットスラング自体が他人を傷つける行為である、という事態はしばしば発生している。たとえば「これはもうだめかもわからんね」「はいじゃないが」というフレーズは、もはや元ネタを知らない人の方が多いくらい普及していると思われるが、その背景を知っていてなお気軽に使える人はあまり多くないだろう。これに限らず、口にするのが憚られるような事象もネタにしてしまうのがネットの恐ろしいところであり、素晴らしいところでもある。
言葉を使う側に悪意がなくても、実際に傷つく人はいる。
思えば元々は、言葉というものは対面のコミュニケーションが基本だったはずだ。対面であれば「それを言うな」と注意することもできるし、何なら拳に物を言わせてもいい(よくはない)。少なくとも、不快感を顔に表すくらいの抵抗は誰にでもできることだ。
文字が発明され、手紙をやり取りするようになっても、文章の作法は会話とは違い、気安く相手を傷つけるようなことはあまりなかったと想像する。もちろん相手を侮辱するようなやり取りもあっただろうが、それでも相手は知っている人間だ。手紙で反論してもいいし、直接乗り込んでいってもいい。そんな時代に顔も知らない人が放った言葉を浴びる機会というのは、野次や落書きくらいしかなかっただろう。そういったものは無価値として捨てることもたやすい。
今やテレビ、ラジオ、ネットで知らない人が知らない人に当てた言葉が溢れている。俺たちが目にする言葉は、99%以上が自分に向けたものではない。お前が応援するVtuberもお前のためだけに喋ってはいない。それは心地よい環境である一方で、誰かに傷つけられる機会が格段に増えたということでもある。そして、誰かを傷つけてしまう機会も。
「麻薬卵」と「嘘松」、ほぼ同時にオモコロの2人が言葉の持つ力について話題にしたことで、俺の中でもいろいろと考えを深める機会になった。誰もが発信者になり全世界と交流することができるインターネットは、言葉の力で発展してきた一方で、淀みというか歪みというか、言葉がもつ負の側面も可視化されやすくなってきたということなのだろう。
よく言われる「誰も傷つかない笑い」はちょっと怪しいと思っているが、そういうものが評価される、人を傷つけるものは何よりも悪である、と定義する社会はベターなものだ。ベストではないかもしれないが、どうせベストな社会などどう足掻いても作れないのだから、とりあえずベターなものを目指していけばよいのだと思う。
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