白蓮・武子と赤銅御殿 (2017.03.26)

今も赤銅御殿惜しむ声

 「赤銅御殿(あかがねごてん)が残っていれば……」とは、今でも別府でしばしば語られる言葉だ。
 大正3美人の1人に数えられる美貌の歌人、柳原白蓮=やなぎわらびゃくれん、本名燁子(あきこ)、1885―1967=。柳原前光伯爵の次女で、大正天皇の従妹に当たる高貴な生まれだったが、明治44年、25歳も年上の筑豊の炭鉱王、伊藤伝右衛門(1861―1947)と再婚する。その伝右衛門が、妻のために大正3年から5年にかけて建てたのが伊藤別荘。別府の市街地から離れ、当時としては静かな山の手の、3500坪もの広大な敷地に贅を尽くした屋敷が築かれた。
 別荘はその後、海軍将校のための保養施設、呉水交社別府集会所時代を経て、戦後は進駐軍に接収された。昭和29年から首藤克人氏が「ホテル赤銅御殿」という高級旅館を経営したため、別府ではその名前が浸透し、赤銅御殿と呼び習わしている。解体され分譲地となったのは昭和54年で、当時も大変に惜しまれた。
 ちなみに、福岡市天神にも伝右衛門の別邸があった。「銅(あかがね)御殿」=こちらは“銅”の1文字=と呼ばれていたが、昭和2年に焼失した。
 現在、別府市青山町の高級住宅地内の公園にある白蓮の歌碑(昭和29年9月、白蓮を招いてホテル敷地内に除幕された)だけが、赤銅御殿跡を示している。

伊藤伝右衛門が献納して海軍の呉水交社別府集会所となった伊藤別荘(“赤銅御殿”)の絵葉書の部分


宮崎竜介との出会いも別府

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