見出し画像

真夜中に浸水 はじめてのテント泊登山

はじめてのテント泊登山は中学2年生の夏休みだった。
登山と言っても京都北山の標高800メートルほどの低山である。

同級生のY君とN君の3人で京都北山の天ヶ森(ナッチョ)と天ヶ岳に登り、安曇川源流でキャンプする1泊2日の登山だった。
なぜその場所になったのか、48年も前のことなので今となっては思い出せないが、Y君の提案だったことは憶えている。

借り物のキャンバス地の重たい4人用テントに嵩張る綿入りのシュラフ、炊事道具に食材、着替え等々をキスリングザックに詰め込み、朝まだ暗いうちに家を出た。
高槻市駅から阪急電車に乗り終点の京都河原町で下車。京阪三条駅まで歩いて朝一番の梅の木行き京都バスに乗った。

空はどんよりと曇っていて今にも雨が降り出しそうだ。
バスは鴨川に沿って川幡通りを北上し花園橋で右折。
高野川の渓流を右に左に見ながら比叡山の登山口の八瀨を過ぎ大原の里に入った。

「きょうと~おおはらさんぜんいん…♬」
そうかここがかの有名は「恋に疲れた女」の人がやってくる場所なんや。 
なんでこんな田舎に来たくなるんやろ、などと思いながら見慣れない閑かな山里の風景を車中から眺めていた。

大原を過ぎるとポツポツと雨が降り出した。
古知谷・小出石の集落を過ぎ、途中峠の手前の三谷口というバス停で下車。
三谷の渓流沿いの林道入口が天ヶ森への登山口である。
バス停だけがポツンとそこにあり、周りに民家は見えない。

林道は谷の奥まで続いておりしばらくは緩やかな勾配で、
沢が二股に分かれるところから三谷峠への山道に変わる。
慣れない重い荷物が肩に食い込んで辛い。

峠への道は笹藪で、雨水を溜めた葉が身体にまとわりつき気持ち悪い。
あれっ、何か変なものが服に付いている。
赤黒い小さな生物が伸びたり縮んだりして太腿を登ってくる。
もしかしてこれがヤマビル。
幸い血を吸われることはなかったので、
気持ち悪いがしばらく観察してから振り払った。

坂は次第に急になり息が上がってきたころ三谷峠にたどり着いた。
レインウエアは着ているが、服はべっしょり濡れて不快極まりない。
当時はまだゴアテックスのような透湿素材はなくレインウェアといえばゴム引きの合羽である。
雨水が透ることはないが、蒸れて内側に水蒸気が溜まって濡れてしまう。
その不快に耐えきれず、天ヶ森に登るのは中止してそのまま峠を下った。

峠を下ると安曇川の源流に出る。流れはどこまでも清らかで、魚の泳いでる姿がはっきり見える。
高槻に住む中学生にとって渓流と言えば摂津峡で、その水もそこそこきれいだと思っていたが、安曇川はその比ではなかった。

安曇川は琵琶湖へ注ぐ滋賀県では大きな河川の一つで、流量は滋賀県随一である。
その源流が目の前にあり、川の中を歩いて渡れるほどの流れになっている。
それだけでも中学生にとっては大きな驚きだった。

安曇川の流れを対岸に渉ると建物があった。地図で確認すると北山修道院と記されている。
そのときはキリスト教の修道院が何でこんなところに有るのだろうと不思議に思ったが、念仏の道場であることを後に知った。

修道院の前の林道を西へ向かうと安曇川は百井川と大見川の2本に分かれる。
その合流点はヒノコと呼ばれるが由来はわからない。
漢字では火の子と書くようである。

合流点から少し下流の左岸に砂が溜まった河原があり、ここにテントを張ることにした。
テントはキャンバス地のA型テントと呼ばれるポール2本と張り縄で立てるタイプ。
当時はキャンプといえばこれであり、ドーム型の自立式テントはまだ普及していなかった。

テントを張り終え夕食の準備をはじめる。
メニューはキャンプの定番カレーライス。
荷物を軽くしたいのと、調理に自信がないのでレトルトカレーである。
そのころはボンカレー一択だった。

燃料は缶に入った固形のもの。
灯りは懐中電灯にハリケーンランプに直径6㎝ほどの太いロウソクだった。
雨が降っているので折りたたみ傘を三本組み合わせて屋根をつくり、その下で固形燃料に火をつけた。
着火はもちろんマッチであるが湿っていてなかなか火が付かない。
何本か擦ってようやく火が付いた。

まず、沢の水を汲んでお米を研ぎ飯盒でご飯を炊いた。
飯盒をひっくり返しご飯を蒸らしてる間にお湯を沸かしてレトルトカレーを温める。
お昼におにぎりを一つ食べただけなので、空きっ腹にこれほどのご馳走はない。

夕食の後に一仕事残っている。
ラジオで短波放送の天気予報を聞きながら天気図を書くことである。
訓練と思って3人それぞれ1枚づつ書いて付きあわせ1枚に仕上げた。
今は便利なツールがたくさんあるが、当時はこの作業をしないことには天気の予想がつかない。
今夜は一晩中雨模様だが、明日の朝には雨も上がりそうだとわかった。

天気素を書いた後は何もすることがない。
毎日深夜ラジオを聞く中学生には静かな長い夜がはじまった。
早々にシュラフに潜り込んだがテントを叩く雨音でなかなか眠れない。

ようやく眠りについたが、夜中に背中が冷たくなって目が覚めた。
雨は小降りになってきたが川の流れの音が大きくなっている。

懐中電灯をつけてテントの外を覗いて驚いた。
午後から降り続いた雨で川が増水し、テントが半分以上水に浸かっているではないか!
慌ててテントの中の荷物を林道に運び上げテントを撤収。
木下に荷物をまとめ、テントを敷いてその上に坐った。
幸い雨は上がっていたが、シュラフも服も水に濡れてボトボトだった。

時計を見ると夜中の2時半。
日の出までまだ3時間近くある。
あたりは真っ暗な闇の中である。
街灯のある街中では経験したことの暗さ。
本当の暗闇がそこにあった。
暗闇の恐怖と寒さでガタガタ震えながら朝まで絶えた。

当初、三谷峠に登り返し天ヶ森に登頂して百井の集落に下る予定だったが、濡れた荷物があまりに重い。
そこで百井の集落まで歩き、空荷で天ヶ森に登ることにした。
国道422号線が前ヶ畑峠を越えて集落に入ったところに小さな売店があり、そこで荷物を預かってもらった。
その売店も今はもうない。

天ヶ森に登るころには天気は回復し晴れ間も見えてきた。
服も次第に乾いて暖かくなったきた。
天ヶ森の頂上は灌木に囲まれてあまり展望が利かないが、
東側だけ開けていて琵琶湖の湖面がキラキラ輝いていた。

売店に戻って荷物を回収し、
売店のおばさんにお礼を言って百井峠に向かった。

百井は朽木街道と鞍馬街道の間の山間にある。
周りは山に囲まれ、急坂の峠を越えないとたどり着けない隠れ里のような場所である。
林業を生業にしている家がほとんどだろう。
小さな田んぼでは稲の葉が波のように風になびいていた。

集落から百井峠へ向かう道を離れ、左手の林道を辿ると天ヶ岳の頂上はすぐそこである。
展望もないので鞍馬へと道を急いだ。
濡れた荷物の重さが肩にのしかかり疲れた身体に堪える。
ただひたすら早く鞍馬に着いて電車に乗ることだけを考えていたので、
天ヶ岳からの登山道の記憶がまったくない。
長くて辛い時間であったことだけ憶えている。

その記憶を埋めにまた天ヶ岳~鞍馬間を歩かねばと思いながら、何十年の歳月だけが流れてしまった。

街中で育った中学2年生にとっては大冒険だった。その苦い思い出が自分の登山の原点である。
そのときはじめて見た景色、はじめての体験が忘れられず、今も自分を山へと駆り立てていることは確かである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?