ショートショート「全知健忘」

映像記憶能力というものがある。一度見たものを決して忘れず、何も見ずとも正確に思いだすことが出来る能力。
SFやファンタジーではなく、現実の話だ。
こんな能力が俺にもあればいいのにと毎日祈っていた。しかし神は俺ではなく、隣にいた幼馴染を選んでしまった。

「カメラアイ」とも呼ばれるその能力は多くが先天的に身につくもので、後から得ようと思って得られるものではないらしい。しかし稀に交通事故などで脳に損傷を負うことで後天的に発現する例もあるらしい。間紙結衣もその一人だった。
幼稚園の頃、俺が蹴飛ばしたボールを拾いに公園から飛び出した結衣は居眠り運転の軽自動車に撥ねられて一週間以上昏睡状態に陥るほどの重傷を負った。その時の怪我が原因で能力に目覚めたらしい。高校生になった今でも一切衰えず、むしろ研ぎ澄まされているようにも見えた。彼女は映像だけではなく音や味、触感まで覚えていることが出来ると言う。羨ましい。俺がボールを拾っていたら立場は逆だったのだろうかと時々思う。

「結衣、帰るぞ」
窓際の席でぐっすりと寝ている彼女を起こす。春の窓際は眠くなる、というのはわかるが授業が終わったのにも皆がぞろぞろ帰っていくのにも気付かない程か。
「....あぁ、将次か。ごめん、めっちゃ寝てた」
「見たらわかるよ。ほい、鞄」
「ありがと」

「昨日食べた晩飯がめちゃくちゃ美味かったんだ。なんて言うんだっけ。アレ。チーズに色々付けるやつ」
下駄箱まで歩きようやく目が覚めてきた結衣に話しかける。
「チーズフォンデュのこと?昨日食べた料理の名前くらい憶えときなよ。大体あんなに美味しいもののこと忘れるなんてありえないでしょ」
「俺はお前と違ってすぐ忘れちゃうの。あーあ、俺もその記憶力があればよかったのにな」
「そんなにいいものじゃないよ。全く興味ないものは憶えてられないし」
「そうなのか?初めて聞いたな」
「初めて言ったもん。皆の期待が凄いからなんとなく言いにくくて」
「全然気づかなかった、ごめんな」
「いいよ。言ったら気が楽になったし。もっと早く言っとくんだったな。ただでさえ数学とか計算とか興味ないのに、何回フラッシュ暗算をやらされたことか....」
俺も昔やらせたことがある。悪いことをした。
「本当にごめんな」
「いいって。言わなかったんだから気づかなくて当然でしょ」
「もしかして昔からノートに何か書いたりしてたのってその練習だったりするのか?」
「そんなとこ。後は授業で聞いてなかったとことかどうでもよくて忘れそうなこと書いたりね。」
結衣は昔からよく一心不乱にノートに何かを書き込んでいることがあった。映像記憶が出来るんだから学校の授業くらい余裕だろうに何してんだと思っていたが、そういうことだったのか。
「案外いいもんじゃないな。映像記憶が出来るってのも」
「そうだよ。こんな能力無くなっちゃえばいいのにって何回思ったことか。結局便利だから助かってるんだけどね」
「なんだそれ」

まさか結衣に憶えられないものがあるなんて思いもしなかった。
風呂に入りながらぼんやりと調べてみると、映像記憶が出来る人はある程度の周期でバッサリと記憶を失うことがあるらしい。脳がキャパオーバーしてアルバムを整理するように突然忘れてしまうそうだ。酷い時には四則演算のような無意識に憶えているようなものまで忘れてしまうと書かれている。
きっと結衣が興味のないことを覚えられないのはそういう物の一種なのだろう。定期的に記憶整理をするのではなく、最初から余計なものは憶えないようにしているのだ。賢いな。


それから一か月ほどした頃、結衣は事故に遭った。
昔のように居眠りの車に撥ねられたらしい。
結衣のお母さんから電話があり、病院に駆け付けた。幸い意識ははっきりしているらしい。
「結衣、大丈夫か?」
病室に入り、ベッドに座り思ったより平然としている結衣に話しかける。
結衣はこっちを見るなり困った顔をして黙っている。
「どうした?」
「....ごめんなさい。私、頭を強く打ったみたいで。貴方が誰か分からないんです。本当にごめんなさい」
「え....?」
そんなはずはなかった。病院についた時ちょうど家に荷物を取りに帰る結衣のお母さんに会ったので怪我の具合について聞いていた。
どういう経緯でそうなったのかは分からないが、尻もちをついた結衣の足に車が乗りあげる形になったらしく足や尾てい骨は折れたが上半身へのダメージはほとんどなかったと言っていた。実際に精密検査でも脳の異常はなかったらしい。だから俺のことを忘れるはずは無かった。まして映像記憶能力がある結衣が。
「あぁ、そういうことか」
「どうしたんですか?」
結衣が忘れてしまうものがあったな。そういえば。まさかとは思うが、それ以外に考えられなかった。


「調子はどう?結衣」
「将次さん。おかげさまでだいぶ良くなってきました。さっき”そろそろリハビリを始めようか”って、先生が」
「それは良かった。これお土産。食べて」
「どら焼き....!ありがとうございます!」
ショックを受けないはずはなかった。ただ忘れられるだけならまだしも、”どうでもいい”と思われていたのだから。小さいころからずっと一緒にいたのに、一切の興味を向けられていなかったのだから。
あの日は家に帰ってから一晩中泣いた。飼い犬が死んだ日もこんなには泣かなかった。
きっとあのノートには俺のことも含まれていたのだろう。どうでもよくて憶えてられないけど忘れると都合の悪いことを書いたあのノートに。そしてあの日事故のせいでノートを見返せず完全に忘れられてしまった。事故の後どこに行ったのかはわからない。別に興味もないからだ。
ノートを探して結衣に渡せばきっと思い出してもらえるのだろう。どうでもよくて憶える価値のない俺を。それより俺はこのままもう一回関係を築きなおす方に賭けたかった。今度は忘れられないように、真っ新な状態から。
そう決めてからは毎日通った。そして何週間か経って今に至る。

「無事に退院出来たら、とびきり美味しいものを食べに行こう。結衣が一番好きな食べ物は何?」
「そうですね....」
「チーズフォンデュとかどう?」
「チーズフォンデュも良いんですけど.... ダメです、決めれません。美味しいものが沢山ありすぎてどれが一番かと言われると....」
そういって結衣は楽しそうに笑った。
初めは思いだせないことに負い目を感じているのか暗い顔ばかりだった結衣も段々と笑顔を見せてくれるようになった。まだ敬語は抜けないけど、確かに距離は縮まっていると思う。
「そういえば将次さん、一つお聞きしたいことがあるんですけど」
ずっと見ないふりをしていた可能性が大きな足音を立てて駆け寄ってきた。
もう逃げられない。
「ノートを知りませんか?昔から使っててボロボロなんですけど、大事なものなんです。鞄にずっと入れてたのに無くなってて」
出来れば思い出さないでほしかった。忘れていてほしかった。有り得ないと頭では分かっていたのに期待していた。
「....見たことはあるけど、どこにあるのかは知らないよ。家にはないの?」
「私も家にあるかもと思って、お母さんに聞いて探してもらったけど無いみたいです。事故に遭った時どこかに落ちたのかもしれません。あのノートがないととても困るんですけど....」
「別にいいんじゃない?無理に探さなくても。どうせ興味のないもののことしか書いてないんでしょ?」
どうにか探さない方に向けたかった。多少強引でも、俺のことが書かれているのがバレるよりはマシだ。
結衣はきょとんとしている。
「えっと、どういうことですか?」
そうか、俺にノートの話をしたことも忘れてしまっているのか。
「事故に遭う前、俺に話してくれたんだ。興味のないこととかどうでもいい物のことはさっぱり憶えられないこととか、憶えられないものがあることを隠すためにそのノートに毎日書いていることとか」
「そうですか。私、そんなことを言ってたんですね。それ、嘘です」
「嘘...?」
「はい、嘘です。全部が嘘ってわけじゃないんですけど」
状況が呑み込めない。呆然としていると、結衣が話を続けてくれた。
「まず、さっぱり憶えられないものがあるってこととそれをノートに書いて忘れないようにしてるってのは本当です」
そうなると、後は
「嘘なのは、さっぱり憶えられないのがどうでもいい物ってことです。確かに少し忘れちゃうときはあるんですけど、本当に全く憶えられないのはむしろ逆で好きな物についてなんです。なんでそんな噓を吐いたのか今は分からないですけど。」
「つまり....?」
「あのノートにはどうでもいい物じゃなくて、とっても好きな物について書いてるってことです。だから見つけなくちゃいけないんです。何が書いてあるのかは全く分からないんですけどね。」

相変わらず頭はついてこなかったが、とにかくノートを探さない理由は無くなったことだけは分かった。
「そのノート、俺が絶対に見つけるよ。大事な物を思い出せないままなんて絶対にダメだ。意地でも思い出さなくちゃな」
そう言って病室を出て、結衣が事故に遭った現場に向かった。結衣は事故に遭った時落ちたかもと言っていた。つまりそれまでは持っていたってことだ。
走っているうちに段々と頭が働き始める。大事な物を忘れるって、それは。
そんなことより、今はノートを探すのが先。しかし事故からかなり経っている。まさか落ちたままだとは考えにくい。
近所の交番に行き、落とし物で届いていないか尋ねる。無い。
事故現場に落ちていたなら警察が家に届けているだろうけど、家には無い。つまり誰かが拾ったか、わかりにくいところに落ちているか。正直どちらも望みは薄そうだ。でも探さなくちゃならない。
何日もかけて周りの家の人に尋ねて回ったり、近くを通った人に訊き続けた。手ごたえは無い。
現場の近くにある空き地を探す。草が伸び放題で、誰にも見つからず残っているとしたらここしかない。
手が草で切れて血まみれになっていたが、それどころではない。
しばらく奥の方に進むと、それらしきものが見つかった。
雨風にさらされ更にボロボロになっていたが、間違いなく結衣のノートだ。まさかこんなところまで飛んでいるとは。

恐る恐るページをめくる。前半は汚れや破れでほとんど読めないが、どうにも同じことを何度も書いているように見える。
正直内容はもうわかっていた。ずっと前から。変わったのはノートの意味だけだ。
どんな顔をしてこれを持ち帰ればいいだろうか。結衣はこれを読んでどんな顔をするだろうか。何て言うだろうか。
そんなことを考えつつめくっていると、ようやく読めそうなページに辿り着いた。ノートの大半を埋めるほど書き並べられた言葉。そこにはこう書かれていた。


「私が一番好きな食べ物はチョコレートフォンデュ」

助けてください。