ショートショート「ヒト群最適化法」

「― 近代コミュニケーション史 終了。」
機械音声のアナウンスと共に、講義の終わりを示すブザーが鳴る。
イヤホンを外し、ブラウザのタブを閉じて帰宅の準備をする。

つまらない講義だった。どうやらずっと昔人間は、他人と言葉を交わさなくては生きていけなかったらしい。
まだTIMが存在しなかった頃。つまり個人の能力や体調等を無視して一様に仕事が与えられ、正しい解決法は自分で調べるか他人に訊かなければならなかった頃。考えるだけでゾッとする。

もう何十年も前、個人最適化システム”TIM”が開発された。
この国の人間は生まれると同時に体内にチップを埋め込まれる。このチップで筋肉量や脳波などの個人データを読み、サーバーにアップロードすることで国民の能力や嗜好を把握・管理することが出来る、というシステムだ。
これによって各個人に一番適した仕事・正しい情報・娯楽・食事等が与えられ、従うだけで充足した生活を送ることができるようになった。
それに伴い生活が個人とTIMだけで完結するようになり、他人が入り込む余地は無くなった。
今こうして使っている”言語”も元をたどれば他人と思考や情報を共有するために生まれたらしいが、今となってはTIMのもつ膨大な量のデータを享受するための架け橋でしかない。

ちょうど今日の朝、駅前で「TIMは人間の思考力を奪い脳を腐らせ、物言わぬ人形に落としこみ幸せを奪う」みたいなよくわからないデモをしているのを見た。馬鹿らしい。それが正しいなら生まれる前からTIMに従ってきた俺はとっくに物言わぬ人形になっていなければおかしいだろう。
でも俺は幸せに生きているぞ。確かに言葉は久しく発していないが、こうして正常に思考もできている。
俺を見ても同じことがいえるのか?

大体TIMが生まれる前の社会はどこもかしこも嘘や不条理だらけで、争いも絶えなかったらしい。
そんな生活こそ脳が腐り、幸せを奪われるに決まってる。
それがわかっていてTIMは不要だなどと騒いでいるのならテロリストと大差ないだろう。実際に危険な思想を持つ集団として目を付けられているらしいし。
とにかく俺はTIMが無い頃の社会に戻るなんて絶対に嫌だ。

このモヤモヤも無駄なものなので、早々に忘れることにする。
パソコンをしまった鞄を手に取り、帰宅しようと立ち上がる。

「ミシロ君、もう帰るの?」
不意に話しかけられ、鞄を落としてしまった。
この時代にわざわざ話しかけてくる馬鹿は世界中を探しても恐らくこいつの他に三人いるかどうかくらいだろう。そんな4/100億の相手をしている暇はないので、落ちた鞄を拾いまるで聞こえなかったかのように立ち去る。
今日はバイトがあるので早く帰らなければならないのだ。

「ねぇなんで無視するの?話そうよ」相手をしている暇はない。早く帰らねば。

「聴いてる?」早く帰らねば。

「おーい」

しつこいな!
何年も声を出していなかったので、自分でも驚くほど大きな声が出てしまった。

​警告:ストレス値・心拍の上昇を確認。休息を推奨します。

ほら見ろ。怒られてしまった。
だというのに肝心のミヨシは驚くでもなくただただニヤニヤとしている。
腹が立つ。

「なんだ、声出るんじゃん。ずっと無視されてたから話せないのかと思ってたよ。」
なんなんだこいつは。聞いてたのか?本当に人の神経を逆撫でするやつだな。

警告:ストレス値の急上昇を確認。休息を推奨します。

まただ。とっととこのストレッサーから離れて帰ろう。バイトの前に少し寝て気持ちをリセットしておかないとまずい。

まだ後ろでごちゃごちゃ騒いでいるミヨシを無視して早足で家路につく。
この苛立ちも、会話をすることもすべて無駄だ。余計なことをしてくれるな。


部屋に帰りついたので、まだ少し残っている溜飲を下げるために布団に飛び込む。バイトの時間がだいぶん近づいているので寝るわけにもいかない。ただ横になるだけだ。
思考がぐるぐると巡る。忌々しい顔と声を反芻しながら。やがて回転も収まったので机に向かいパソコンを開く。

バイトはすぐに終わった。ただ指示されたプログラムを指示された通りカチャカチャと書くだけなのだから楽なものだ。
そうはいっても学校帰りだし何時間もパソコンに向かっていたのだから相応に疲れが来ているので、晩飯の前に一度寝ることにする。
「今日は災難だった」なんて月並みなセリフを吐きたくはないけれど、そうとしか言い表せないくらいに災難だった。
つまらない講義・馬鹿らしいデモ・無意味な会話。
いやきっと会話といえるようなものではなかっただろう。俺は「しつこい」と叫んで立ち去っただけだし。
少し感じ悪かったかな。でも無駄に話しかけてくるほうが悪い。これで腹を立てて話しかけてこなくなればいい。


通知:夕食の時間です。

もうそんな時間か。
結局一睡もできなかったので早く食べて寝たい。
席に着く前に既に用意されていた栄養も味も整った食事を急ぎ目に済ませ眠りにつく。


俺の返事に腹を立ててもう話しかけてこないだろうという浅はかな予想は見事に打ち砕かれ、今日までの二週間ミヨシは毎日話しかけてきた。朝から放課後まで何度も何度も、休みの日を除いて毎日。昨晩何をしたとか、帰り道に猫がいたとか、そんなどうでもいい話。
物凄く疲れた。
三日目に、そろそろ無視するのも忍びないなどと思って返事をしてしまったのが間違いだった。それからミヨシはますます調子に乗り、増して話しかけてくるようになった。一度返事をしてしまった手前また無視をするというわけにもいかないので、いちいち相手をしなくてはならない。最悪だ。
今日も朝から貴重な時間を特に興味もない昨日見た映画の話なんかに潰されてしまった。


授業が終わり随分と経ったが、始業のベルに邪魔されて出来なかったらしい映画の話の続きを延々と聞かされている。バイトは入れていないので逃げることもできない。
アメリカで起きた大災害(サメが空を飛んだなんて記録はないのできっと架空のものだが)を描いた映画。

「その竜巻からみんなで必死に逃げてさ、最後は家族とか恋人と力を合わせて立ち向かうんだよ、竜巻に。面白かったなぁ」
恋愛や友情、家族の絆でさえも今の俺達には到底理解なんて出来ない概念だ。今残っていないってことは理解する必要のないものなんだろうけど。
「そういう恋とか絆みたいなのって俺にはよくわからないんだけどさ、面白いものなの?」
「私もよくわかんない。経験したことないしさ。でもさ、たかだか数十年前の映画なのに何を描いているのか全くわからないのってすごく面白くない?」
「そういう楽しみ方か、なるほど。」
「すっごい面白かったからさ、一回見てみてほしいな。また明日ね。」

部屋に帰ってからは娯楽の時間を取ることにした。毎日話しかけられるせいかストレス値がそろそろまずい値になってきたからだ。
いつもならこの時間はTIMの勧める通りに少し美味しいものを食べてゆっくりしたり、音楽を聴いたりするんだけど、今日は例の映画を観てみることにした。
一日がかりで勧められたので流石に少し気になってきたし、「楽しめないものを楽しむ」という観点は今まで自分にはなかったのでそういう点も含めて観てみたいと思ったのだ。

正直に言うと、あまり面白くはなかった。やっぱり俺には人間模様を見ても面白いとは思えないし、そのわからなさを楽しむこともできなかった。なんかハチャメチャをやっている感じは楽しめたけれど、どうしてもわからないものを見た時のモヤモヤが上回ってしまう。
でも一応気分転換にはなったようでストレス値も落ち着いてきたので良しとしよう。


翌朝もミヨシはやっぱり話しかけてきたので、せっかくだし映画を観たことを伝えようと思った。
内容は面白かったが友情とかについては分からなかったし面白みを感じなかったと言うと、「今時わからないものに目を向ける人なんてほとんどいないし楽しめないのも仕方ないよ」と言っていた。
なんだか自分は世間一般とは違って楽しめるんだぞと言われているようでムッとしたけど、実際その通りだし別にわざわざ口に出すようなものでもないので黙っていた。無駄にもめ事を起こすのも面倒だ。
無駄だというならそもそもこの会話自体が無駄なのだが、今更避けることはできなさそうなので諦めている。

「私にもミシロ君の好きなものを教えてほしいな。じゃないと不公平でしょ。」
「不公平も何も、そっちが突然勧めてきたんじゃないか。」
「そんなことは置いといてさ、教えてよ好きなもの。それにこういう楽しみを共有しあうのって友達っぽいじゃん。」
友達?冗談じゃない。俺が今こいつと話しているのは執拗に話しかけてこられるからってだけだ。友情はよくわからないけど、きっとこんなつまらない義務感ではないだろう。だから俺たちは友達なんかじゃない。第一友達なんて要らない。無意味だ。
そう言ってしまいたかったが、例によって面倒ごとを避けるために言葉を飲み込むことにした。

その後も教えろと延々言われ続けたので結局押し負けてしまい、普段聞いている曲をいくつか紹介することになった。
その一度だけで済めばよかったがどうやらその友達感とやらを気に入ってしまったらしく、しばらくの間好きなもの・良かったものを互いに共有しあうことになった。
ミヨシは俺に映画や小説を、俺はミヨシに音楽や美味しかった食べ物を勧め、暇な時間に見聴き食べし感想を報告する。
安直に”宝物交換”と名付けられたこの遊びは半年以上続いた。最後のほうはもう勧めるものもなくなって、パソコンをスプーンで叩くと少しいい音がするとかそんなしょうもない事を言うしかなくなっていた。ミヨシはまだ勧め足りないという感じだったが、これ以上は本当に無理だったのでなんとか説得した。しばらくは不服そうだったが、ようやく諦めてくれたようで俺が勧めた”宝物”をあれはよかったこれもよかったと嬉しそうに話している。

自分で終わらせておいてこういうことを言うのは間違っているかもしれないが、意外と悪くは無かった。こうして自分が勧めたもので相手が楽しそうにしているとなんとなく嬉しいものだ。
それに勧められた映画とかを観るのも楽しくないわけでは無かった。楽しかった、と思う。
ミヨシの好きな物語はどれも絆や愛が主軸のものばかりで結局最後までよくわからなかったし難しくてつまらないなと思うことはあったが、不思議と退屈はしなかった。

そんな風に思い返してしみじみとしている間にもミヨシは色んな曲の感想や食べ物の味を語りながら目を輝かせていた。
「君の宝物はどれも素晴らしかったよ。ありがとう!」
「どういたしまして。でも大したことはしてないよ。TIMが勧めてきたものをそのまま教えただけだから。」
「そうだと思ったよ。でも嬉しいんだ。ミシロ君が勧めてくれたものはTIMも勧めてくれた。それって私たちの趣味がかなり合うってことでしょ?」
「それは違うんじゃないかな。だって...」
だって、TIMはミヨシが俺に勧めてくれたものを何一つとして提案してこなかった。そう言おうとして言い淀んだ。分からなくなってしまったからだ。
俺は何故、TIMが提案していない物を選んだ?TIMが言う通りにしておくのが一番いいとわかっているはずなのに。現にミヨシの好きな映画はほとんど分からなくて、楽しめなかったはずなのに。
「急だけどごめん。帰るわ。」
「いつも私が先に帰るのに珍しいね。用事でもできた?」
「.....まぁ、そんなとこ。」

ふらつく足をどうにか動かし、今にも輪郭を失い空に消えてしまいそうな身体を無理矢理押しとどめながら帰路についた。
生まれてから少なくとも一年前までTIMの言うことに従わなかったことは無かった。そうすることが最善だと知っていたし、そうしないことは悪だとまで思っていた。
それなのに俺はTIMを無視していた。何度も。無駄だ無駄だと言っていながらミヨシとの会話を続けた。ミヨシの勧める娯楽をそのままに受け取った。
楽しかった。決して無駄ではなかった。
自分を形作っていた殻が砕けていくのを感じる。気分が悪い。TIMに従わない生き方なんて知らない。そんなことTIMは教えてくれなかった。

警告:ストレス値の急上昇を確認。休息を推奨します。

もう何を信じていいのか分からなくなっていた。


翌日は学校に行かなかった。
昨日からとめどなくめまいはするし、吐けるものはきっと小腸くらいまで吐き尽くした。
体調の問題以上にミヨシに会いたくなかった。会えばきっといつものように会話をしてしまう。楽しんでしまう。そうしたらもっと信じるべきを見失ってしまうだろう。これ以上寄る辺のない孤独には耐えられない。

注意:設定された”登校時間”を超過しています。

TIMはずっと俺に呼び掛けている。でも身体は全く動かなかった。
俺の人生はもうきっと詰まっている。学校に行っても行かなくてもTIMを裏切ることになってしまう。何も選びたくなかった。

朝目を覚ました姿勢のまま夕方まで天井を見ていた。何も口に入れなければ吐くこともないので一切動かなかった。
インターホンが鳴った。そんな機能が付いていることは知っていたが、一度も機能したことはなかったので何の音かわからなかった。TIMが来客だと知らせてくれたので仕方なく玄関に向かう。この時代にわざわざ部屋を訪ねるような人間は限られていたが、そんなことにも気づけないほどに限界を迎えていた。

「こんばんはミシロ君。休むなんて珍しいね。プリントを届けに来たよ。」
「....プリントなんて配られたことないだろ。」
喉がカサカサでやっとのことで声を出した。
「冗談。話したいことがあってきたんだ。」
俺は話したくなかった。ただでさえ学校に行かなかったんだ。これ以上はもう本当に耐えられない。
「ミヨシ、悪いけど俺もう―」
「もしかしてだけどミシロ君は今、TIMを信じていいか分からなくなってるんじゃない?」
「......え?」
きっと返答の必要はなかった。俺のやつれた顔は全てをミヨシに語ってしまっていただろうから。
予想通りミヨシは軽く微笑み、「やっぱりね」と呟く。
しかしその後に続けた内容は俺の予想だにしなかった。
ミヨシの微笑みは直前まで俺に何も語ってくれていなかった。
「ごめんねミシロ君。それ、私が仕組んだんだ。」
「...は?」
「反TIM派がいることは知ってるよね?実は、私もそのメンバーなんだ。それで君を誘いたくて声をかけた。ちょっとづつ仲良くなって、TIMへの信頼を少しずつ崩して、仲間にしようと思ってたんだ。」
開いた口が塞がらなかった。舌を動かすと乾燥した口蓋に張り付いてピリピリと痛んだ。
訊きたいことはいくらでもあった。なんで俺を。どうして反TIMに。
これまでの一年は一体。
見透かすようにミヨシは続ける。
「君を選んだのは純粋に気になったからだよ。友達になりたかったから。それに、TIMを妄信している人の方が都合が良かったんだ。そういう人ほど少しTIMに背くようなことをさせれば折れるからね。」
「それと、二人でいた時間はとても楽しかったよ。嘘じゃない。作戦ではあったけど、君に勧めたものはどれも本当に私の好きなものだし、君が勧めてくれたものは全部好きになった。出来ればこれからも一緒に居たいよ。一緒に来て欲しい。」
一体何処へ行こうと言うのだろうか。何も声が出せない。こんなことなら昼間にちゃんと水を飲んでおくんだった。
「実は反TIM派のメンバーが集まってきたしそろそろ大きい活動をしようってことになってね。今まで通りの生活を続けるのは難しいから皆で移住することにしたんだ。場所はまだ言えないけど、TIMの手が届きにくいところにね。それで、君にも来て欲しい。」
馬鹿を言うな。大きい活動ってつまり、本当にテロリストになるってことじゃないか。それに、俺は絶対反TIM派には入りたくない。
「俺は、 行かないよ。」
何とか声をひねり出した時、TIMがアラートを鳴らした。

警告:344番の危険思想表出を確認。これより拘束対象に認定します。
346番、直ちに344番との接触をやめてください。
これ以上は共謀者とみなします。

「やっぱりね。でも一応待ってる。来てくれるならここに来て。」
手渡されたメモには地図が描かれている。少し離れた山の中腹にマークがしてある。
「私たちの仲間にならなくたっていい。”ミヨシ”と”ミシロ”じゃなくてさ、”三好”と”三代”としてこれからも居たいんだ。待ってる。じゃあ行くね。」
ミヨシは走り去っていった。追うつもりはない。
水を飲んで一呼吸置くと、長い間騙されていたことに対する強い怒りが急に込み上げてきた。騙されていたことだけではない。騙されているのにも気づかず幸せだったと感じてしまった自分に、その期間の全てが噓だったわけではないと聞いてほっとした自分に腹が立って仕方が無かった。大体「仲間にならなくてもいい」って、結局ついていったら仲間になったのと同義じゃないか。そんなわけにはいかない。
絶対について行くものか。このメモもスキャンして通報してしまおう。
何度もそう思ったが、頭とは裏腹にまた身体は全く動かなかった。答えはもう出ていたのに見ないふりをしていた。

別にTIMに従う必要なんてない。従わなくたって幸せに生きられた。三好と一緒に居れば。
俺にはもうTIMに従う理由も、反TIMを嫌う理由もなくなっていた。
俺が生涯抱えてきた宝物は小さなメモと引き換えに持っていかれてしまった。着の身着のまま追いかけた。
喉を刺す冷たさも空腹も気にならなかった。殻を捨て身軽になった身体を全力で走らせるべく足を回した。
TIMはうるさく警報を鳴らしていたが、全部無視した。
友達に会うためならどんな苦痛も無駄ではなかった。

メモの場所にはすぐに辿り着いた。小さな広場にポツンと一つ人影がある。三好だった。
「来ると思ってたけど、遅かったね。もう皆先に行っちゃった。」
「ごめん。三好、遅くなった。」
「大丈夫。皆は寄り道していくみたいだから最短で行けばまだ追いつけるよ。行こう。三代君。」
「いや。俺らも寄り道していこう。朝から何も食べてないんだ。」
「そっか。じゃあ何か食べていかないとね。」
「あぁ。ゆっくり行こう。もう急がなくても良さそうだし。」
柄にもなく騒がしい街に背を向け、歩き出した。

助けてください。