異国で24回目の8月31日を迎えて

そうか、もう一年の2/3が終わったのか。携帯のカレンダーを眺め、ふと気づいた。

風が秋の香りを運んでくる。目に飛び込む景色は、少しだけ秋らしい色を帯び始めている。少し肌寒い15℃前後の気温の中で、深く息をする。ドイツでの滞在が今日で一ヶ月を迎える。

すっかり心も体も頭もドイツモードで、のんびりゆったりしていた私は、noteの募集を見て、少し昔のことを思い出した。死にたくて、消えたくてどうしようもなかった、14歳の夏の終わりのことを。



苦しかった。夏の暑い日に見た、入道雲を見て、あの雲の中に溶けてしまいたいと本気で考えていた。

自然発生的な、誰も悪くない、けれど家族みんなが傷ついてしまうようなこと。それを当時の自分は、すべてその家庭に生まれた自分が悪いのだと思い込んで、背負い込んでいた。私の存在が、他者を傷つけているのではないかと半ば強迫観念を持っていて、思春期独特の自分に対する劣等感や苛立ちといったものが、さらにそれを追い立てていた。

あの頃は夏が終わるのをめどに、自分がどこかに連れ去らればいいのにと本気で思っていたのだ。

笑うことを忘れ、涙も枯れて、自分のすべてを憎んで、食事も喉を通らず、部屋で自分が存在する意味をひたすら考えたりなんかしていた。いくら思いあぐねたって、何も変わらないのはわかっていた。けれども、本当にどうしようもなかった。自分を自分でコントロールすることが、ほとんどできない境地にいたんだと、今なら冷静に分析できる。

「死にたいなんて言っちゃだめだ」「自分なんていなければいいなんて思っちゃだめだ」-そんな綺麗事は、体が全く持って受け付けなかった。苦しいと心がもがいているような状況にある人間に、これらの言葉は全く通じない。


それでもしぶとく生き続けられたのはなぜか。単に、死ぬ勇気がなかったからである。

高い高層ビルから落ちるのには、足がすくんでしょうがなかった。ナイフで体を刺すには、痛みをリアルに想像してしまって、腕が動かなかった。

そのうち、弱虫な自分はさらに気づいてしまったのだ。

苦しいし、この苦しみから逃げたくてどうしようもないし、自分が大嫌いであるけれど、自分でもわからないわたしの一部が、無意識下で、"生きたがっている"ということに。

いなくなる勇気もないうえに、生きようとする自分を、最初は受け入れられなかった。けれど、そのうち、なんとなくでも生きていける気がしてきた。

ご飯を食べる。お風呂に入る。布団で寝る。そういった単純なことを、自分はこの先も繰り返していける、と直感的に感じたとき、"生きたい"じゃなくて"生きれる"自分の存在に気づいたのである。



なんだか苦しいなあ、もういやだなあ、つらいなあ
この苦しみから、どうにかして逃れたいよ、助けてよ


そういう人は、まず、すぐに生きるか死ぬを考えるんじゃなくて、「自分が生きてしまっていること」を素直に受け止めることから始めるといいんじゃないかと思う。あー生きてるよ。生きちゃってるよ。ってな感じ。

そして、同じ毎日を、あー生きてるよと過ごすうちに、「あーまあ生きてやってもいいかな自分の人生」と思えるようになったら、もうこっちのものである。コツは自分の生を客観的に見つめて、放っておくこと。これに尽きる。要するに、自分の人生に苦しめられる側じゃなくて、生きる側に立つということ。興味ないけどまあ付き合ってあげてもいいよ、ってな感じで。



私はあなたにはなれないからあなたを助けることはできない。けれど、一度似たような経験があった人間として、こうしたら楽になるかもよ、くらいなことは伝えたい。

今、何か「苦しい」と思っている人が、少しでも「生きてていいや」と思える世界になるように。いつの間にか、あんなこともあったな、と笑えるように。まずは自分が、あの日の「自分」を、感情も苦しみも全部ひっくるめて、大切に受け入れたいと思っている。



24回目の8月31日を迎えるわたしから、15回目の8月31日を迎えようとしているあなたへ。

少しはご飯食べていますか。空は晴れていますか。入道雲を何時間も見つめたりなんかしちゃってますか。

あなたは大丈夫だよ。逃げなくても、消えなくても、生きちゃえるから。

あー生きてるな、ってぼーっとしているのが今のあなたの仕事。どんなに悲しくても、辛くても、生きてるってことをなんとなく感じていられれば、わたしはわたしをきっと裏切らないよ。

そして、9年後の同じ日にはけろっとした顔でいろんな優しさに囲まれて、楽しく過ごしているから。


いつもより少しだけ美味しいチョコレートを買って、あなたに感謝しながらそれを味わって、つらつら思いを書き連ねます。ありがとう。