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【日記】9/23

 雲一つない快晴を100とするならば76くらいの晴れ模様。自宅のドアを開けて外に出てみると、そこにもう夏はいなかった。匂いがしなかったのだ。この週末に誰かと、たとえば大切な人と、共に過ごす予定を立てなかったことを後悔した。今日がとても涼しく、今年初めて秋を感じる日であったことにSNSで一言だけ触れて車に乗り込むと、そこに少しだけ夏の残り香があった。時刻はまだ昼前だった。

 自宅から5キロほど離れたガソリンスタンドで洗車をしている間、高騰しているガソリン価格が高々と掲げられている看板ばかり見ていた。価格の4割ほどは税金なので実際の価格は、などと考え事をしていると、洗車後の拭き上げが捗った。「走ったら払ってね」ではなく「払ったら走れるよ」という仕組みで徴収されるガソリン絡みの税金は、そうでもしないと払わない人間が出てきたり、簡単に暴動が起きたりするのだろうな、だとか、まあそもそも原油高だしな、だとか。自分の中に答えや知識として置いておくつもりもないことを考えては忘れるの繰り返し。車が綺麗になったのでしばらく雨が降らないことを願いながら、目的地へと向かった。

 同じように1人で休日を過ごすときでも、SNSに逐一報告して楽しみたいときとそうでないときがある。写真を撮るかどうかもそれに左右されたりするのだが、この日は後者だった。何故そうだったのかは『気分』としか言えないのだが、強いて言えばこの日の目的が『映画を観ること』だったからかもしれない。これは加齢によるものなのかわからないが、ここ数年は映画を観たり小説を読んだりするとき、すぐに集中モードに入れなくなってしまった。というより、自分が今気持ちよく集中できるかどうかをまず気にするようになってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。時間が気になるのだ。

 『自分が今から何かに時間を割く』という意識は若い頃は持っていなかった。いつどこで何を始めてもいいような、あの感覚でいられた。それによって夜更かしもできれば、意味のないことに夢中になることもできた。しかし今はそうではない。これから観ようとしている映画は、もちろん内容に興味があるから観たいのだが、それをして時間を過ごすという計画そのものや、映画について誰かと話題を共有したいという欲求や、リバイバル上映で短期間しか観られないという時事性や話題性が、映画館に行くという行動の原動力になっている。なんとなく観たいから観る、で動けていないことを実感すれば、自分がいかにつまらない人間になったかが良く分かる。これが老いるということかと。

 そんな感覚を持っている現在は、わざわざ物事に集中しようとする。日常生活から、あらゆる操作の行動を削ぎ落として、レスポンスのためのアンテナやセンサーの機能を止めて、集中した時間を過ごせるように準備をする。時間を使うということに対して抜かりのないように。上映されている映画館が少なく、自宅から車で1時間強のところに向かわなければならないということもあったが、この日は夕方から始まる上映よりも随分と前に目的地に到着した。なじみのない土地でカフェを探してケーキを食べながらコーヒーを啜り、とにかくぼーっとした。普段であればそこは非日常であるのだが、この日はそうであってはならなかったから。

 映画に集中できたこと、内容が面白かったことは言うまでもない。80分程度の作品だが、事前の準備が効きに効いて最初から最後まで集中できた。これについて何か語る日は近い未来訪れるだろうという感覚、集中すると、余韻に浸れる時間が長くなることも好きだ。そして俺はどっと疲れてしまって、この日のうちに復路の運転ができる気がしなくなり、近場に宿を取った。インターネットで同映画の考察や感想を見ているだけの時間を過ごした後は、ただ眠くなり寝てしまった。

  その後、起きて夜中に開いている飯屋を探すも、もはや食べたいものもわからず、牛丼を食べた。そういう日だった。

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