百合の定義論争に終止符を……


忙しい人もよかったら「結論」だけ読んで行って下さい。

自分語り

 ハードコア百合ロック、略してハユロです。
 かれこれ10年くらい百合厨やってるまだまだ新参者です。
 先輩後輩の百合が大好物です。
 あと、私はそれを百合とはあまり呼びませんが、熱い友情系の作品が大好きです。それを百合と呼ぶ人も多いかもしれない。それはそれで良いと思います。


私の立場について

 はじめに、私は百合という言葉を主に「女性同士の恋愛関係」という意味で使います。ですが、それ以外の意味で百合という言葉を使う事を間違っているとは考えません。
 この文章はあくまでも、あらゆる百合を愛する人々が平和に楽しく百合を愛せる事を目的にしています。

 この文章のターゲットは主に「百合は女性同士のあらゆる関係に使うことが出来る言葉である」と考えている人です。○○を百合と言うな!とか言わないので、どうか最後まで読んで下さい。
 きっとそんな方々こそ、これを読むメリットがあると思います。


そもそも

 そもそも、百合という言葉は男性の同性愛である薔薇の対義語として生まれ、女性同士の同性愛について使われるものでした。これは誰が何と言おうと事実であるようです。先行研究もあるので調べてみてください。

 しかし、古い意味が正しいと言う気もありません。
 多くの人が空を赤いと言えば空の色を指す言葉は赤になります。それと同じことが百合には起きつつあります。違いがあるとすれば、「恋愛関係ではない百合」に空における「青」にあたる言葉が無かった事です。無ければ作ればいいのですが、今のところちゃんと普及したものはありません。
 別にロマンシスでも巨大感情でも何でもいいとは思うんですけどね。

 ここまで読んだ方の中には「別に全部百合でいいじゃん」と思っている方も多いと思います。それではダメな理由を次に語ります。


百合じゃない論

 百合の定義論争の端っこではしばしば「○○(作品名)は百合じゃない」といったような意見がちらほら見受けられます。
 以前Xで次のような意見を見ました。

  「○○は百合じゃない、という意見は自分の好きな作品を百合以上に特別なものと思いたいだけだ(要約)」

 確かにオタクって自分の好きなモノを既存の型から外れたものであると思いたいものですよね。
 でも、ちょっと待って欲しい。全員が全員そんな中二心で言っている訳ではないんです。以下の文章を読んでみてください。

①「『やがて君になる』は百合じゃない!」

②「『リズと青い鳥』は百合じゃない!」

 どうでしょうか、意味合い結構違うと思いませんか?
 ①の人物は『やがて君になる』が好きな故によく分からない事を言っているだけかもしれませんが、②については説明の余地があります。『リズと青い鳥』はメインキャラクター達の恋愛模様を描いた作品ではないし、それを百合とは呼ばない人は少なくないのです。しかし、広く百合という言葉を用いる人々にとっては彼等が斜に構えたオタクに見えるかもしれません。
 この現象は女性登場人物が多い作品で頻発します。アイドルマスター、ラブライブ、スタァライト、など多くの作品は「百合は恋愛関係」と思っている人にとっては百合ではないのです。


百人十百合?

 そしてこのような議論の中で百合好き達が編み出したのが次の論です。

  「百合はひとそれぞれ」

 うんうん、多様性ですよね。平和的で良いと思います。
 でも!ちょっと待って欲しい!
 「百合」という言葉はジャンル名なんです。人々の心に流れる情景を指す言葉ではないのです。「人によって定義が変わる」ジャンル名ってなんぞ?もはやジャンル名として機能しないじゃないですか。

※注意ここから先、百合の定義を狭める論調に見えるかもしれないですが、そのような意図は無いので我慢して読んで下さい。

 当然、どのようなジャンルにもそのボーダー上に位置する作品は存在するし、そこまで明確な線引きは出来ていないと思います。ですが、だからと言って「百合は女性同士のあらゆる関係」と定義することには明らかなデメリットがあるのです。次の図を見てください。

 架空の相関図を作りました。ここでは4種類の関係性が見られます。ABが百合であることは良いとして、残りの3つはどうでしょうか。
 あらゆる特別な関係を百合と呼ぶ、という事はAD、AC、BCについても百合と呼ぶことです。それ自体は問題ありません。しかし、ABとACが同じ呼称であるという事が問題なのです。

 この話をすると、「親友や相方の関係性が恋愛関係よりも劣るものではない」という意見が現れるかと思います。そんな話はしていません。ここで言いたいことは、恋愛関係という物はその他の関係とは明確に違いがある、と言う話です。
 ABは恋人なのでこの先家族になるかもしれないし、肉体関係があるかもしれない。恋愛関係とはそういったことをある程度前提に成立しているものです。一方でそれ以外の関係性ではそのようなことは無いのです(あっても良いが)。
 ここには「ABとそれ以外」という明確な線引きがある事がわかります。にもかかわらずそれらを呼ぶ言葉は「百合」のひとつ。これはもはやジャンルとして成立しないと言っていいのではないでしょうか。

 「人の数だけ百合がある」という意見は、一見平和的に見えて最も百合というジャンルを蔑ろにしているようにも感じるのです。

 極端な例を出すと、書店の百合コーナーに友情モノが置いてあったら恋愛モノを探している人にとっては邪魔だし、友情モノを探している人にとっても見つけにくくないですか?と言う話です。
 ガヴドロと桜Trick同ジャンルでしょうか、桜Trickとやが君は作風こそ全く違えど最終的に恋愛関係になると言う点で同じと言えると思います。


俺らのせいかも知れねえ……

 ここで心の中の自分が語りかける。

  「でもおまいら、そんな作品を百合って言ってたじゃん。あれ明確な恋愛描写出てこないじゃん」

 そうなのです。我々は多くの日常系アニメ、アイドル系作品を百合と呼んできました。これは今までの話と矛盾するように見えます。
 これからする話は推測を多分に含むので読み飛ばしても良いですが、ここではなぜ多くの作品や関係を百合と呼ぶようになったのかを考察します。

 まず、先程も述べた通り我々はもともと恋愛関係のみを百合と呼んでいました。私含め今でもそのように使う人間もいます。例えば、恋愛ではない女性同士の尊い関係が描かれるアニメがあったとして、我々はそれを指して百合とは言いません。しかしながら、そのふたりの「原作では描かれていない恋愛関係となる可能性」を頭に浮かべ、それをあたかも公式で恋愛関係であるかのように「うーん、○○は百合!」という事が大いにあります。
 私は、これこそが百合の広義化におけるひとつの要因なのではないかと考えています。言うなれば二次創作的百合の濫用です。

 掲示板や動画サイト、イラスト投稿サイト、SNSの普及により百合好きな人たちが集まって多くの作品を百合と評する。最初は「恋愛関係となるその先」を妄想した上での行為だったはずです。しかしやがて「延長線上で恋愛関係を妄想できる原典」そのものを百合と呼んでも良いといった風潮が出来たのではないかと考えたのです。
 そして百合という言葉は専ら「女性同士の恋愛作品」を楽しんでいた人々の手を離れ、「女性同士のあらゆる関係に使える言葉」として普及したのではないでしょうか。
 先に言いましたがこれはまだ根拠の見つけられていない推測です

 ここで更に話が面倒になる要素が出てきます。僕のような「百合という言葉は恋愛関係だけに使う」という人のおそらくほぼ全員が、「それはそれとして恋愛じゃない女性同士の関係性は好き」なのです。
 なので、同じジャンルとして扱われる事やそれらに触れることが特に不快ではないのです。しかし、少なくとも現代の日本人にとってはとても重要な恋愛関係の有無という要素は区別すべきなのではないかと思うのも事実です。


結論の前の自分語り

 結論の前に、私がこのノートを書いた理由をお話しします。それは、百合を愛するが故にこの「百合の定義問題」で不快感を覚える人を少しでも減らしたい、というものです。

 「百合はもともと女性の同性愛の事なのに」
 「恋愛以外も百合なのに」
 「恋愛ではない百合が恋愛より下ではないのに」
 みなさん様々な思いがあると思います。

 インターネットでは特に百合は女性同士のあらゆる関係に使うことが出来る言葉であるという言説が強いように感じます。私が違和感を覚えるのは彼らの多くが保守的な姿勢を見せることです。少なくとも歴史上は、先に「レズビアンと同義の百合」が存在していました。しかし「百合は恋愛」という意見を前に、自分たちの百合を守るために苦しんでいるのをよく見かけます。
 そういった方々も自分たちは保守ではなく、むしろ少し新しい勢力であると再認識することで少しは楽になるのではないでしょうか。


結論

 多くの創作者、百合作品のファンが、百合という言葉を手放したくはないでしょう。使い始めたのであれば今更「○○は百合ではない」という事にはしたくないはずです。
 しかし、先程も述べた通り旧来の「女性同士の恋愛百合」と「恋愛を含まない百合」は区別するべきです。
 そこで私は考えました。これら全てを「百合」、恋愛要素を含む物は「百合α」、恋愛要素を含まないものは「百合β」といったように分けてしまえばいいと。こうする事で、例えば

  「マリみては百合」
  「マリみては百合βだけど百合αも含む」
  「公式はともかく祐巳瞳は俺の中じゃ百合α」

 といったような表現が可能になるのです。どうでしょうか。

 しかしこの表現の実現には課題がふたつありそれは、

・百合α以外を百合と認められない人がそれ以外を認めること
・百合βを含めた百合を好む人がαとβの区別を認めること

 です。
 結局互いに歩み寄るしかないあたり、人間らしいですね。

 百合という言葉はその興りが同性愛者のものであったという以外に定義をされていないのでしょう。身も蓋もありませんが、定義論争を終結させるには定義するしかないと思います。
 「人の数だけ百合がある」は正しいですが、このままではこの論争で無駄に嫌な思いをする人がこの先も現れるでしょう。私はそれを避けたいのです。

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