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次元が異なる岸田内閣

 政府を批判しておきたいと思った。しかし、それは最初の衝動ではなかった…。度々「次元の異なる…」とか、「広島出身の…」との枕が頻繁に語られるにも関わらず、何とも凡庸でつまらない政の手腕に、それがどれ程敗戦後の歩みの途上にある国家の歴史においてお粗末に見えるのか、為政者に少し自覚して貰いたいと思った。

 正確さには欠けると思うが、1945年3月23日辺りから沖縄で米軍の空爆は開始され、数日後からは艦砲射撃が始まり、3か月のちに沖縄戦は沖縄守備軍第32軍司令官牛島満中将らの自決によって一つの節目を迎え、同年9月7日に南西諸島全日本軍を代表して宮古島から第28師団(豊部隊)の納見敏郎中将のほか、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが参列し、米軍に対して琉球列島の全日本軍は無条件降伏を受け入れる旨記した降伏文書に署名したと伝わる。その後1972年5月15日に日本政府に返還されてから半世紀を経て、6月23日を「沖縄戦慰霊の日」として、新たな祝日に閣議決定することがなされてもいいのではないかと私個人は考えていた。

 阪神淡路大震災の発生を受けて、村山内閣の対応に批判が高まり、震災発生から1年ほどで村山内閣の退陣が表明され、連立内閣の一翼を野党を経験したのちに再び与党としてその一角を担っていた自民党から、総裁の橋本龍太郎が首相に就任することになり、内閣を発足させると約3か月で普天間基地の返還が日米首脳の合意としてトップダウンで決断された。1996年4月12日のこととされている。

 因みに、第一次安倍内及び改造内閣(2006.9.26-2007.9.26)が発足した際には、のちに首相となった小渕恵(1937.6.25-2000.5.14)も、橋本龍太郎(1937.7.29-2006.7.1)もすでに他界していた。2006年9月26日にそれが発足すると、約3か月で教育基本法は改正され、防衛庁が防衛省として拡大発足することが決まってしまった。

 橋本内閣は第一次、第二次、第二次改造内閣と変遷し、932日の約2年半続いた内閣であったが、第二次安倍内閣-第四安倍次第二改造内閣(2012.12.26-2020.9.16)は第一内閣も含めると3188日、9年弱続いた。橋本龍太郎、小渕恵三と安倍晋三(1954.9.21-2022.7.8)は、自民党総裁を務めて内閣総理大臣を務めた点は共通するが、生まれた時期や政治家としての姿勢にはかなりの違いが認められると思う。橋本内閣は1998年7月の第18回参院選で議席を失った責任を取って退陣し、自民党総裁戦が「軍人、凡人、変人」と田中真紀子に名付けられた三者で競われ、凡人と評されていた小渕恵三が内閣を率いることになった。

 村山内閣は自民党、新党さきがけ、社会党の連立内閣として成立し、橋本内閣の発足時も連立は維持されていたが、1996年10月の第41回衆院選で社会党から社会民主党に改名した社民党と新党さきがけは議席を減らし、この二党は閣外協力となって第二次橋本内閣からは自民党による単独内閣となり、小渕内閣発足当初まで自民党単独政権が続いた。そして自民党単独政権の歩みはそれで終わりを迎えた。この様な経緯は調べたから記せていることであって、恐らく殆どの有権者は覚えていないのではないだろうか…。

 最後の自民党単独内閣として発足した小渕内閣は安定した基盤を築くことが出来ず、自由党の小沢一郎と組んで自自連立内閣が1999年1月14日に発足し、そこに公明党が与党に加わって10月5日自自公連立政権が発足し、2009年8月の第45回衆院選を経て民主党政権が誕生する前の2009年9月16日まで、約10年紆余曲折を経ながら自公連立政権が続いた。2012年12月の第46回衆院選を経て再び自公政権が誕生すると、同年12月26日に第二次安倍内閣が発足してからそれは今日まで11年余り継続している。能登半島地震から一週間が経とうとする現在は、第二次岸田第二次改造内閣が内閣を担っている。因みに、第一次岸田内閣(38日)は敗戦直後に発足した東久邇宮内閣(54日)の記録を塗り替える最短命内閣となって衆議院を解散している。

 前置きが長くなってしまったが、幣原内閣の発足翌日の1945年10月10日、婦人参政権が閣議決定され、暮れに衆院選挙法改正案が帝国議会で可決され、ポツダム宣言受諾後の1946年4月10日に改正法の下で第22回衆院選は実施された。

 その結果、第一党となった日本自由党党首の鳩山一郎は公職追放となり、旧憲法の下で天皇から組閣の大命を受けた最後の内閣として、敗戦国で実施された最初の選挙後に第一次吉田内閣が発足する。しかし、新憲法発足を前に、その正統性を世に問う趣旨で、一年後には第23回衆院選が実施され、社会党が第一党となって約1年で第一次吉田内(1946.5.22-1947.5.24)は終焉した。この後を受け、片山内閣、芦田内閣と続くがいずれも短命内閣にとどまり、第二次吉田内閣が発足して第5次内閣(1948.10.15-1954.12.10) まで続く。

 その後1954年11月24日に発足した日本民主党の、党首となっていた鳩山一郎が吉田の後を受けて内閣を担い、1955年11月15日に自由民主党が結党する。自由民主党初代党首にはこうした経緯で鳩山一郎が就いた。自由民主党は、サンフランシスコ講和条約を主導した第52第合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスの意向を受け、親米内閣であることを前提にして発足した。憲法改正を党是としていた。この政党の長期単独政権は、繰り返しになるが1999年10月5日に小渕内閣の下で発足した自自公連立によって終わる。細川内閣の発足時に野党も経験したが、44年足らずの期間になる。

 沖縄でのサミット開催を決めた小渕内閣は、宰相の急逝によって2000年4月5日に終わるが、森内閣が1年余りその後を受け、さらにこの後、自民党総裁選を経て小泉内閣が発足し、ポピュリズムの台頭はこの辺りから明瞭に始まっていたのかもしれない。

 旧憲法から日本国憲法の施行にかけて、憲法上の主権者は天皇から国民へと変更される。そのことを憲法学では8月革命説として説明してきたが、その起源には1946年2月14日に旧東京帝国大学に発足した憲法研究委員会(委員長:宮沢義俊)における委員の1人丸山眞男の発言があったと伝わっている。丸山眞男は前年の8月6日、広島で旧陸軍船舶司令部に所属していた際に、合衆国の原爆投下による被爆を経験していた。

 憲法学者樋口陽一の著作によると、中世立憲主義が「身分制的特権を持つ主体者間で、多元的に並ぶ権力を相互抑制することに留まる」のに対し、近代立憲主義は「身分制を否定して諸個人と国家が向かい合う二極構造を前提とし、その上で個人の権利を保障しようとする」違いが両者にあると説かれている。

 敗戦国の混乱の最中に降伏文書の調印から約14か月後には交付された日本国憲法の第一章天皇は…
第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
第2条
皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第3条
天皇の国事に関わるすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
…と第8条まで続くが、自民党改憲草案はこの天皇を再び元首とし、第97条を削除している。しかしながら、日本に生まれた近代国家が民主主義を基盤とする国として成熟したのならば、中世立憲主義の名残りの匂いがする第一章を、国民の合意の下で、日本国民統合の象徴とされてきた天皇を国民に統合し、皇室典範を継承する法律を定めて国民として天皇が継承されてゆく新たな国家像を模索することは必要に思える。

 日本国憲法憲法の交付およひ施行から1世紀を迎えようとする時期に、国政の課題とされないことのほうが私の様な有権者からすれば、次元の異なるレベルで政を担っているとしか言いようがない。恐らく、岸田文雄という人物には、ここに記した様なことは求めてもまず担えるはずもないことはこの阿呆にもわかるが…。

 能登半島地震に始まった2024年、翌年に控えた大阪・関西万博の中止を決断することはできないのだろうが、参加を見合わせる国も現れる中でその取りやめ決断もできず、国連核兵器禁止条約の批准にも後ろ向きで、与党総裁選の心配がなされていると聞く。

 主権者にもその責任はあるに違いないが、いわゆる安保条約が自動更新される様になって半世紀余り経過し、意思表示すれば一年程度で破棄できることになっている日米安保体制を一度破棄して、新たな日米関係を築く中で普天間基地の返還をグアムに求めることは、日本政府の外交方針として…その気になれば実現は困難には違いないが…必ずしも不可能なことではないだろう。しかし、その様な結果を求める意思が毛頭ないのが岸田内閣なのだろう、と思う。




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