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人類の自死は進化か退化か

攻めた話題だが最近いつも考えていることだ

せっかくなので、一つの文体にして

自分の考えを整理したいと思った。

人間は自死を選択できる稀有な生き物だ。

他の動物では滅多に観測されない行動が

自死、自ら選択する死である。

"滅多に"とつけたには理由があり

実は悲しみに暮れた動物が拒食症になるなど

生を拒んだケースは世界中に存在する。

しかしどの動物と社会性を持たず

ただ悲しみに暮れた結果であり

自死とは断定できずそもそも判断する能力が

乏しいと言う結論である。

だが人間は比較的高知能であり

社会性を見に纏っているが

自死を選択することが可能な生き物だ。

では、なぜ自殺者が後を絶えないのか

昨今でも日本の若者の自殺者は増加している

なぜ日常的に電車の人身事故は増え

私たちの生活にありありと紛れ込んでいるのか

これは幸せの感じ方が関係していると考える

幸せとは相対的評価で得られると僕は思う

例えば

昔よりいい暮らしができるようになったとか

周りよりお金が稼げることだとか

比較対象は過去の自分や周りの人間と

その人の性質によって違うが

基本的には何事も絶対評価ではなく

相対的に見る事がほとんどだ。

幸せに評価の基準となる定義はなく

何かと比べる事で幸福度は上昇する。

ブータンなど良い例ではないだろうか

昔は幸福度が1番高い国だと知られていた

しかしSNSを導入すると

それはまるで隣の家の芝生は青いと

言ったように他国の技術に圧倒され

幸福度は著しく低下の一途を辿った。

これは比べる対象が変化したことが原因だ。

SNSが伝わる前では国内しか比較対象がいない

その中で現在のブータンと過去のブータンでは

技術は進歩を遂げ現在の方が良好な環境のため

相対的な幸せは感じやすい

しかしSNSにより先進国とブータンでは

技術レベルは天と地の差だと知る事になった

だからこそ、相対的な幸せではなく

相対的な"妬み"に変わりやすい。

これと同じ相対的な幸せの原理が働き

先進国であり少子高齢化の問題を憂う国が

自殺者を減らせない理由だと僕は感じている

高齢者は"最近の若いものは"と軟弱加減に

杖と悪態をつきながら言うのにも

この原理の影響だと考える。

昔は何もなかった

だからそれらを生み出した

生み出すには労働力が必要だ

だから雇用もあった

そして昔に比べて良好な環境を築けた

しかし僕らのように

生まれた時から環境が整っていたのなら

相対的な幸せは生まれにくい

何か技術革新が起きても

タイムマシーンのようなものができない限りは

現代では、画期的な発明だと言えるのだろうか

何か起きても結局、どんぐりの背比べであり

そして何より高齢者世代の年金負担や

世代間格差の問題が発生し妬みに変わるのだ

また人間は生活水準を下げることはできない

もし強制的に水準を下げられると

昔の方が良かったと皆様方口を揃えて言い

相対的な幸せではなく妬みに変わる。

今このような問題はしきりと世界で起きている

中国では少子高齢化からデフレ経済になり

若者の失業率が年々増している。

その中でタンピン族と言い

俗に言うミニマミストのように

最低限の稼ぎであとは寝ることに専念する

希望が持てない若者が増えている

アメリカでも行きすぎた資本主義での影響で

社会に外れたものへの助けが全くないため
一度人生を失敗すれば救済されない

そんな社会を作り上げた先人たちの影響の中で

DOMMERという元々は"終末論者"を意味する

職にありつけず社会を僻んだ目で見た若者が

多くいると問題視されている。

韓国でも財閥の一極集中が根強く

MZ世代のように社会から除け者にされ

一刻も早く世界滅亡を願う若者がいる。

皆、幸せが感じられない世の中になった

この世は満たされすぎている。

満たされすぎているが故に

欲望もなく、希望もない世の中になった。

長くなってしまったが簡単にまとめると

最大多数との幸福とは少数派の犠牲で

成り立つものであり、日本で置き換えると

その少数派とは社会的地位が乏しい

マジョリティである若者であった。

本日の主題は

「自死は人類の"進化"か"退化"か」

僕は進化とも捉えれると考える

社会は複雑化された

様々な情報が飛び交い

女性が家事と仕事の両立を求められるように

一個体につき負担が増加した。

境界知能のボーダーラインが引き上げられた。

しかしボーダーラインにも並べない人がいる

でもそれは仕方のないことなのだ。

社会に適合する事ができない個体は

正しいかどうかは置いておいて
自然の法則では淘汰されて当然なのだ。

これがよく言われる
敗者がいるから勝者がいるだとか
光があるから闇があるとかなんだと思う

負け犬には嘲笑される役割がある。
それによって大半は精神をクリアに保つ。
残酷だがそれは事実だ。

しかし人類は正しく生きようともがく

確かに倫理的には見過ごせない問題だ。
だが、倫理も人間が作った綺麗事だ。

現に学校でのいじめや職場のパワハラなど
弱者を淘汰させる自然法則のようなものは

人間も元は動物なので、本能的に存在する。

僕らはそこで世界に適合できなかった人が

自死を選択する際に、綺麗事を言いながら

後ろ指を刺せる人間なんているだろうか

僕はどうにもできない。

そんな人たちに向けて"生きろ"と
単純明快に叫び続けることは

心臓が止まった体に胸骨圧迫と輸血を
永遠と繰り返すようなものである。

たまに自殺を止めて表彰される人がいる

それは良い事であるが、その先は?

その事象を止めただけでは何も解決にならない

根本を解決しなければならない
しかしそこまでは
当の本人は面倒なので踏み込まない。

結局、堂々巡りだ。

だから僕は自死を進化として肯定する他ない。

退化と揶揄しても止める術も見つからない。

便利で満たされすぎた世の中では

何も変えられないと僕は考える。

でもそんな人を助けてしまいたいと
考えてしまったのが僕の悪癖である。

分かりきったことばかり並べているので
さすがに退屈になってしまった。

最後に、何事にも理不尽はつきものだけど
理不尽にも意味があることを突き詰めたい。

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