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【論考】千葉雅也-デリダ論ーー「同一性/差異」の脱構築

本noteは、「脱構築」で知られているフランスの哲学者ジャック・デリダに関するものである。ただデリダ単体の思想というよりも、フランス現代思想の研究者である千葉雅也が書いたデリダ論、つまり千葉-デリダの思想を今回は扱う。そこには、20世紀後半に一世を風靡したデリダの複雑な思考を、現代に活かす際の心構えが含まれていると考える。とりわけ千葉- デリダの思想は「仮固定」「有限」といった千葉雅也固有の概念によって、脱構築の現実的な実践可能性を開いているように思える。今回は、まとまった千葉-デリダ論である『現代思想入門』の第1章「デリダーー概念の脱構築」を読解、整理し、その可能性を抽出する。

本論に入る前に、本稿で考えることになる問いをあらかじめ提示しておこう。

まず人間は基本的に「〇〇は〜〜である」と割り切って楽になりたいわけだが、それを割り切らせないように介入するのが脱構築である。それも、脱構築は「割り切らせないようにしつづける」という終わりのない運動なのである。ただそうした思考を、体力や認知リソースに限りがある人間が行うには、どういう態度でいればいいのだろうか。またそうした態度は、どのように概念化できるのだろうか。

千葉のデリダ論には一貫して、こうした問いがあると考える。


※このnoteは、一旦書き終えた第1部だけ載せている。

第1部 

二項対立の脱構築

まずデリダは、二項対立を用いる思考を問題として取り上げる哲学者である。二項対立とは「対となるような概念の組み合わせ」のことであり、例えば「必然/偶然」「予定調和/即興」「グローバル/ローカル」などが、それにあたる。またその概念のペアは価値並列ではなく、つまり横並びではなく、価値の優劣がつけられているのである。例えば「グローバル/ローカル」であれば、現在「グローバル」の方により価値が置かれ、生まれ育った地域(ローカル)に限らず、世界にも通用するような「グローバル人材」を目指すことが推奨されるなど、明らかに価値の差が設けられている。そうした概念間の序列は、グローバル資本主義が拡大している今日、自明なものとして受け入れられていることだろう。ただ本当にそうだろうか。デリダは、こうした「概念間の序列(ヒエラルキー)」の自明性に疑問を投げかけ、二項がどういった論理で序列化されるのかを暴き、その序列の決定不可能性を指摘する。これが脱構築である。


「同一性/差異」、差異の徹底

こうした概念の二項対立に「同一性/差異」というセットがある。「同一性」、辞書的に言えば「異なる事物が、その性質から見ると区別できないこと」「事物が時や場所を越えてそれ自身に同じであること」(デジタル大辞泉)である。つまり「ある事物らに共通し、かつ一貫しているような要素」を指す。一方の「差異」は、そうした「同一性」とは逆に「ある事物らに共通しない部分、変化するような部分」を指している。西洋の伝統的な哲学では「同一性」の方が物事の本質的な要素と考えられ、価値が置かれていた。つまり、既存のヒエラルキーとして「同一性(+)/差異(ー)」が存在しているのである。

ただデリダは、また同時代のポスト構造主義の論者(ドゥルーズやフーコー)らもそうであるが、この「同一性/差異」の二項対立に関して、徹底的に「差異」の方に力点を置く。千葉雅也は、以下のように指摘する。

「今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ずれや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。」(p. 36)

すでにある「同一性/差異」という序列に対するアンチ・テーゼとして、物事の「差異」の側面に価値を置くのが現代思想の特徴である。これにより価値転倒を起こさせるのである。

ただ脱構築的思考でいえば、二項対立における序列を一回は転倒させるも、逆転させて終わらせるのではなく、その後、序列の決定不可能性まで導く必要がある。しかしデリダは、この「同一性/差異」に関しては、「差異」一辺倒なのである。

私が思うに、デリダにおいては、特に「同一性」を徹底的に排除する必要があったように思われる。それは、あらゆる二項対立の「序列」を支えているのは「同一性」であり、序列とは「ある事物らに共通し、かつ一貫しているような」ものだからである。いろいろな二項対立の序列を揺さぶるには、まず第一に「同一性」を切り崩す必要があったのだろう。そのため「同一性/差異」という二項対立だけ特殊な扱いを受けていたように思える。

「同一性/差異」のデリダの態度に対して、他の二項対立同様に脱構築してみせたのが、千葉雅也なのである。


「既成の序列」との緊張関係

もう少し「なぜデリダは「差異」一辺倒であったのか」という問いに踏みとどまってみよう。これに対しては、デリダが生きていた時代において「同一性」の権威、「同一性」への寄り戻しが強かったからだと考える。文脈は少々異なるが、デリダは以下のように述べている。

「[ 二項対立を転倒しなければならない理由は、]くだんの二者闘争的対立の位階序列はいつでも再びまた新たに構成されてしまうからです。」(ジャック・デリダ『ポジシオン』、p. 61)

これは「二項対立の序列に関する決定不可能性」を提示する前に、既存の序列を反転させるフェイズを挟む意義を解いている箇所である。内容としては「なぜデリダは「差異」一辺倒なのか」という問いに直接答えるものではないが、大雑把に言うと一度二項対立を転倒させたり、脱構築しても、再度「序列化」されてしまうことを指摘している。

これはイメージで言えば、風穴をあけても、すぐにその穴が埋められてしまう感じだろうか。開いている一瞬だけ風通しが良くなるが、それは一時である。だが、その一時を求めているのである。だからデリダ関連の書籍には「〜しつづけなければならない」というワードをよく見かけるのだと考える。風穴を塞がれても「風穴をあけつづけなければならない」というわけだ。この文言には暗に「塞がれてしまう」ことが前提にされていると感じる。

こうした構図は他にも、1983年に同様にフランス現代思想の内容をまとめた『構造と力』の著者である浅田彰との対談にも見られる。それは『構造と力』と『現代思想入門』が出た時期の雰囲気の違いについて言及している箇所である。

「(千葉)ただ、『構造と力』が出た時代は資本主義や左翼思想など、打ち破るべき強固なドグマがあったわけですよね。いくら殴っても揺るがないサンドバックのような。だからそれに対抗する緊張関係の中で、脱構築や逃走といった現代思想の概念が、非常に強い効力を持ち得た。」(浅田彰、千葉雅也「今なぜ現代思想か」p. 197)

つまり「既存の序列(左翼思想) vs  デリダ」という構図があり、この緊張関係の中で、脱構築が繰り広げられていたというわけだ。このような状況だと「差異」を叫んでも圧倒的に「同一性」の声の方が強いため、「差異」に全振りする態度で臨む必要があったのだろう。また別のいい方をすれば、これは「同一性」の方を自らがカバーしなくても相手側が自動的にやってくれていたとも言える。ここから脱構築は単独で成り立つのではなく、何かしらの対抗する関係があって初めて成り立つ思考だと言えるだろう。だが冷戦も終結し、薄っぺらいグローバル資本主義一強になった時代に、こうした思想的緊張関係は健全に成り立つのだろうか。


「仮固定的同一性」と「差異」のリズム

以上、デリダの二項対立に対する脱構築、つまり「概念間の序列=秩序」を揺さぶるような思考を見てきた。このとき徹底して「序列」の同一性を疑い、そこからズレるような「差異」の方に力点を置いていたことが重要である。ただ一つ前で見たように、それは序列を安定化させようとする勢力が強かったために、戦略的に取った極端な態度のように思える。千葉は、このデリダの態度に対して以下のように指摘する。

「これは僕の解釈という面が強いのですが、デリダはべつに脱構築によって全部を破壊しろと言っているわけではないと、まずは答えたい。あくまでも脱構築は「介入」であって、全てが崩れるなんていうことは考えられていません。ですから、何か「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくようなイメージでデリダの世界観を捉えてほしいのです。」

人間は何かしらの「秩序」、「概念間の序列」が必要不可欠である。例えば「ローカル」に価値を置くのか、「グローバル」に価値を置くのか、我々は対立するものに何かしらの傾斜をつけて、取るべき行動を選択している。それに対して、デリダは「序列など存在しない」と序列廃止を訴えているのではなく、「自明な序列など存在しない」と揺さぶっているのである。しかし、ただ「揺さぶっているだけです」と言ってしまうと既存の勢力と緊張関係が生まれない。緊張関係をつくるには、徹底的に「序列を疑い抜く」態度でないといけないのである。この構図がデリダの真意(本当の真意かは分からないが)を見えにくくさせていたように思える。

それに対して、千葉はデリダが意図的に括弧に入れていたであろう思惑を表に出させ、「差異」一辺倒だった態度から、別の態度へと、つまり「同一性/差異」どちらかではなく、かつどちらでもあるような両儀性をもった態度へと転換する。

そこで出てくるのが「仮固定的同一性」という語である。これは単なる「同一性」ではなく「未来の可変可能性」を伴った同一性である。つまり「完全な固定」ではなく「仮固定」、ピン留めである。このように「同一性」を考えることによって、「ピンを外して、別の箇所に再度留めること」の余地を含ませられるのである。

また「仮固定的同一性」と、同一性に「仮固定」という語を一枚噛ませることによって、時間的な展開、千葉のいう「仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来」が可能になる。これは「同一性」と「差異」の同居不可能さを、持続する時間軸の上に「(仮固定的)同一性」「差異」「(仮固定的)同一性’」「・・・」と並べることによって回避したと言える。

この時間軸に並べることを例えるならば、「太鼓の達人」での「ドン」と「カッ」のリズムである。「ドン」を「仮固定的同一性」、「カッ」を「差異」として音楽を刻んでいく。このように考えると、デリダは「差異」一辺倒なため、「カッ」のみを刻む役割だったと言えるだろう。「太鼓の達人」自体は予定調和的な譜面をこなすだけだが、デリダは「ドン」しかない音楽に介入し、即興的に裏打ちで「カッ」を刻み、より音楽を豊かにしていたとも言える。


自分の中に「仮固定」を行う機構を持つ

ここまでが「千葉のデリダ論」に対する整理、注釈である。大きくまとめると、「差異」一辺倒であったデリダに対して、「仮固定的同一性」という概念を用いて「同一性/差異」を脱構築し、「仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来」という新たなヴィジョンを打ち出したのが千葉-デリダ論であった。これに対して最後、「リズミカルに行き来するのは誰か?」という問いを立てて、第1部を閉めよう。

この問いは、途中で立ち止まった「なぜデリダは「差異」一辺倒であったのか」という議論と繋がる。その際の議論を振り返ると、デリダは「既存の序列(左翼思想) vs  デリダ」という構図の中で脱構築を実践しており、その際「同一性」の役割を自分が行わずとも、相手サイドが自動的に行なってくれたため、「差異」を徹底することができたのだった。つまり、そこではデリダ単体ではなく、その構図全体が「仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来」をしていたのである。

ただ冷戦が終結し、思想的な緊張関係がなくなった現在、「同一性」を外部委託しても、それを期待することはできないだろう。そうした状況下で、緊張関係が必然的に必要な脱構築を行うには、「(仮固定的)同一性」の機構を自前で用意する必要があると考える。つまり、自分の中に「既存の序列 vs  デリダ」をつくるということだ。例えていうならば、デリダを脳内会議の1人として飼うのである。他の論者にはマルクスやヘーゲルなどを飼っておけばいいだろう。そうすると「脳内会議」全体で「仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来」をすることが可能になるわけだ。

これの脳内会議を拡張させ、属している組織や共同体などを1つの単位としてもいいだろう。その際、常に「差異」を強調する役回りではなく、組織全体で「仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来」ができるように臨機応変に振る舞えばいいのである。千葉雅也による「同一性/差異」の脱構築により、デリダの脱構築という実践を、全体の流れに対する「介入」として捉えることができ、どの単位(ユニット)で「リズミカルな行き来」をするかを、柔軟に設定できるようになったと考える。


ひとまず第1部を。

第2部は「未練込みの決断」など、脱構築と他者について書くつもりである。その際、原理的にストッパーを持たない脱構築との付き合い方を、千葉雅也の「有限」概念から見ていく。


参考文献

・千葉雅也(2022)『現代思想入門』、講談社
・高橋哲哉(2015)『デリダ 脱構築と正義』、講談社
・ジャック・デリダ(1972/2023)『ポジシオン』、青土社
・浅田彰、千葉雅也(2022)「今なぜ現代思想か」、文藝春秋



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