忘れ物
退屈でやけに長い夏休みはそろそろ折り返しを迎えようとしていた。高校二年生の夏休みが一番自由で素敵であると父は力説していたが僕はそんなことはないと思う。自由で素敵な時間はもっと他にあるはずだ。
課題と古本屋で買い込んだ本を消化する日々はお世辞にもこれが高校生の夏休みだと言えたものではない。活字と活字しかない日々である。たまに部屋を出るのは昼食と夕食の時ぐらいだ。
その日の昼飯は牛丼だった。
何気なくつけたテレビでは高校球児が白球を追っていた。マウンド上のピッチャーは溢れんばかりの太陽の光と視線を一身に受けて、闘志の目をぎらつかせていた。解説が彼を高校二年生だと紹介する。
しばらくして気がつく。僕は彼と同い年なのだ。いまいち僕と彼が同じ青春の渦中にいることを実感できない。別世界の出来事だと思っていた。
彼は一点だけ失点をしたが、一試合まるまる投げきり、勝利投手となった。いくらかホッとした表情でマウンドを去る彼は夏そのもののようだった。
僕は少し冷めた牛丼をかき込み、自室へ戻った。
窓から吹き込む生ぬるい風は僕の半ズボンの裾を揺らす。青葉の、夏の香りがする。ちょうど家の前を通った自転車に乗った小学生の楽しそうな声が聞こえる。そんなつもりもなかったけれど気がつけばノスタルジーに浸っていた。それと同時に不安になる。いつか、自分が大人になって、果たして今の自分を思い出して、同じように今を懐かしんでくれるだろうか。戻りたいと、思ってくれるのだろうか。
夏の暑さのせいか、いつまでもノスタルジーの残滓は消えない。それどころかその思いは少しずつ大きくなっていき、それとともに室内の温度も上がっているのがわかった。どうやらこの想いも、熱も、こもっているばかりで発散する場所がないらしい。
外に出てみるのも悪くない気がした。
目的もなく歩き慣れた道をひたすらに進む。特に行き先も決めていないがこのまま進んでいくと、小学校に着くはずだ。先程の高校球児を照らしていた太陽とアスファルトから上がってくる熱気は自室よりひどい。歩くという行為も合わさって汗が心配になる程滴り落ちる。外になんか出るんじゃなかったと早くも後悔した。しかし僕はそれでも歩むのをやめなかった。理由はよくわからない。意地になっているのかもしれない。
ふとあたりに視線を送ると小学校のころ毎日毎日歩いた登校路も少しずつ様子が変わっているようだった。
何もない更地だった場所は何件か新しい家が立っていて、家の中から小さな子供の声がする。逆にあったはずのユーレイ屋敷は取り壊されて、売地の看板がある。
背丈も幾分か伸びたからか懐かしくも新鮮な気持ちで路地を抜けていく。たまに通りすがるチャリンコ暴走族の小学生たちが不思議そうな顔で僕をみる。いつか君たちもこうなるかもな、と心の中で言っておく。
そうして二十分かそこらで小学校にたどり着いた。白くのっぺりと建っているそれは静けさに包まれている。
別に用もないし教師もいないようなので校門手前で回れ右をして帰ろうと思った。心のわだかまりはまだあるもののいくらかスッキリしたしいい運動にもなった。帰って何もない日の続きをしよう。と、振り返る直前だった。
「あれ、小川くん?」
背後から僕を呼ぶ懐かしい声がした。振り返ると、髪を短く切り揃え、肌が真っ黒に焼けた女性が立っていた。確か名前は川口だったように思う。
「川口さん、だよね」
彼女ははっきり頷いた。
「よくわかったね」
我ながら同じように思った。小学生の頃とはまるで印象が違う。黒髪は肩甲骨あたりまで伸びていたと思うし、どちらかと言うとインドアで白いイメージがあった。小学校六年生時点では僕よりも身長が少しだけ高くて羨んだ。しかしその印象が今ではほとんど真逆で、背もその頃からあまり伸びていないようだ。僕が若干見下ろす形になっている。何もかもがあの頃と違っていた。
「いやぁ陸上部に入ってからやけちゃってさぁ」
こんなに冗談めかして話すような人だっただろうか。記憶が曖昧だ。
それでも僕は彼女があの川口真白なのだと信じて疑わなかった。きっとそれは彼女が僕の思い人だったからだと思う。
「こんなところで何してるの?忘れ物でも取りに来た?」
なかなか不思議な質問だ。しかし忘れ物という表現は妙にしっくり来た。ある意味で僕は忘れ物を探しに来た。
「そうかもしれない」
「そうなんだ。奇遇だねウチも」
へーそう、と言ってみたもののよく分からない。きっと向こうも同じような気持ちなんだと思うことにした。
それから校門の影で少し喋っては沈黙を繰り返した。中学から学校が別でもう五年も会っていない元クラスメートの男女が話す内容なんてそう多くなかった。今どこどこの高校に通っている、だとか、部活はあれをしている、だとかそんなような世間話で沈黙を繋いだ。
不思議と今日ここに来た理由については話さなかった。聞いたらダメなような気もしたし自分が聞かれてもどう答えればいいかわからなかったからだ。
それにしても彼女は驚くほど変わった。僕が好きだった人、その人だと胸を張って言えないほどの大変身だ。彼女がそうなるに至った経緯や理由を知りたいと思いもしたが、それが前に進むということなのかもしれない。
「ウチさ、忘れ物取りに中に入ろうと思うんだけど、大丈夫かな?」
唐突に、彼女はそう聞いてきた。その真剣な眼差しからふざけているわけではなさそうである。
「流石にまずいんじゃないかな、無断で学校入るの。まず開くかもわかんないし、人も通らないなんてことはないしさ」
れっきとした犯罪だし、学校侵入って割と罪が重そうだ。ただのイメージだけど。
「どうしても忘れ物を取りに行きたいんだよ。どうすればいいと思う?」
いくつかやりようはある。だがそれよりもその忘れ物について気になってきた。先程までそんな様子は微塵もなかったのに突然どうしたのだろうか。聞いてみたいとも思ったがデリカシーに欠ける。代わりに一番まともな案を提案した。
「先生がいる日にはいればいいんじゃない、きっと卒業生だしスムーズに入れるよ」
「そっか、そうだよね。それで小川くんの方の忘れ物は大丈夫なの?」
「僕の方は別に大丈夫。あってないようなもんだし」
彼女は何故かほっとした表情を浮かべた。その表情にまた彼女がした忘れ物というのが気になり始める。それほど大切なものなのか。何故卒業してから五年も経った今、思い出したのか。
「ねえ、川口が忘れ物を取りに行く日、僕もついていっていいかな?」
悩んだ末に言葉を捻り出した。少し心臓の鼓動が早くなったように思う。
彼女もまた悩んだようだった。
「わかった、いいよ」
それから一言二言交わし、僕たちは別れた。
なんでもない日が一転、その数十分の間に僕の夏休みは動き出した。もう二度と帰ってこないと思った忘れ物は彼女の手によって僕に帰ってきた。
帰り道、やたらと足に絡みつく熱気がどこかへ行ってしまったように足取りは軽かった。
僕は恋という概念を知ってから、自分が川口に向けている思いがそれだということに気がついた。ちょうど四年生になったばかりの頃だと思う。それから三年間その思いは燻り続け、結局卒業式の日までその思いを伝えることはなかった。僕の引き出しの中には渡せなかった恋文が一葉、今も眠っている。
当時の僕は彼女と三年間クラスが一緒だったものの会話を交わすこともほとんどなかった。きっかけも今となってはわからない。どこか大人びていて、ミステリアスで、でも目の奥には強く輝く活力があった。そんなところが好きだったんだと思う。
今はどうだろうか、という言い方をすると現在の彼女を否定しているようにも見えるが、そうではない。今も昔も変わらず整った顔をしているし、活発な女性が好きだという人だって少なくない。ただ、何も変わらないまま大人になっていくのだろうと思っていた幼い自分の幻想は簡単に打ち砕かれた。もう、僕の好きだった初恋の人はいないのだ。
家についても、落ち着くことはできなかった。課題も読書も手につかない。
僕は諦めと決心を同時につけて、机の引き出しを開いた。そこには僕が書いたものと、もう一つ、恋文が入っていた。差出人の欄に視線を滑らせるが差出人の名前は確認することができない。ひとつだけ思い出したことがあった。
*
約束の日、太陽は姿を見せず、どんよりとした曇りで今にも雨が降ってきそうだった。僕は念のためビニール傘を持ち、あとは恋文を一つ持ってきた。これも念のため、である。
集合は十時に小学校の前。彼女が連絡をくれた。
五分前に学校に着くと、彼女はもうそこにいた。僕を見つけると大きく手を振る。それに手をふり返す。青みがかった白のワンピースを着こなした彼女は夏の生写しかと思うほどに輝いて曇天を照らしていた。少し、眩しい。
今日も暑いね、なんて会話をしながら来賓用の玄関から学校に入る。事務手続きをしている最中、先生がニヤニヤしているのがわかった。そんなんじゃないです、と心の中では反論したが、もちろんその声は届くことはない。
夏の静かな校舎を歩くのは初めての体験だった。騒がしい子供の声はなくて、僕と川口が歩く音と蝉の鳴き声だけが校舎に響き渡る。真っ直ぐな廊下はどこまでも続いているようだ。
「ちなみに、忘れ物ってなんなの?」
極力、おどけて言った。答えたくなかったら答えなくてもいいよ、というニュアンスを含むように。
「あぁ、弟の数学、じゃなくて算数の教科書だよ」
だから、拍子抜けした。そうだったのか。
「弟いたんだね」
「今小学校四年生なの。おばあちゃん家に行ってるからお姉ちゃんが取りに行ってーって人使いが荒くてさ」
まぁ可愛いから許しちゃうんだけどね、と付け足す。いいお姉ちゃんなのだろう。
四年二組の教室に入る。そこは思い出の場所によく似たどこか別の場所だった。椅子も机も僕はみたことがない新しいものになっていて、掲示物も見覚えのないものばかり。まるで教室全体がここは君の場所ではないと迫っているようだった。
彼女は素早く弟の教科書を見つけると、
「忘れ物は回収したけど、小川くんの忘れ物は探さなくていいの?」
と、聞いてきた。なんだかわからない気持ちになったまま、まだ学校内を散策することにした。
図書館や音楽室、理科室に職員室。それらは卒業した時となんら変わりがない様子だった。もちろん職員室には知っている先生は一人もいなかった。それから六年生の頃の教室にも行った。使っていたロッカーの中には何もない。学期末だからここを使っている生徒が全部持ち帰ったのだろう。ロッカーの上に貼ってあった小川智大の名前のシールも跡形もなく剥がされている。もう僕たちがここにいたという印は何も残っていなかった。
最後に下駄箱に向かった。
使っていた靴入れを調べてしまえばいよいよ学校散策も終わりだ。
下駄箱に着くと彼女は真っ先に僕の使っていた下駄箱を確認した。そしてふう、と息をついて言った。
「何もないね」
これが最後の決め手だった。
「ごめん」
何故だかわからないけれど謝らなくてはならない気がした。
僕のポケットの中には恋文が一つ。宛先は小川智大。差出人の名前は、黒く塗りつぶされていて分からない。
この手紙が卒業式の日の朝、下駄箱に入っていたことを僕はつい先日まで忘れていた。名前のないラブレターは卒業式のあの日の僕には悪戯に見えた。黒く塗りつぶされた向こう側には名前なんてないと思ってた。
おかしいと思ったのはやはり彼女がどうしても学校に入りたいと言った時だった。彼女は確かにあの日弟の数学の教科書を取りに来たのだろう。しかしその日は学校の休校日であった。普通だったらそのまま家に帰っていた。でも、その日たまたま僕はそこに居合わせた。
それによって彼女は学校に入ることに対して急を要することになった。と考えるのが自然だろう。しかし、僕が外から小学校を見ていることで彼女にとって困ることがあるのだろうか。そこで僕はその時の会話を思い出した。彼女は最初僕に忘れ物を取りに来たのか、と聞いた。僕はそれを冗談だと思っていたけれど確かに弟の忘れ物を取りに来たのならばある程度当然の質問のようにも思う。そして僕はそうかもしれない、と答えた。
この回答は彼女にどう映ったのか。細かくはわからないがおおよそ肯定の意味でとらえた筈だ。
つまり、彼女は僕に見られてはいけないものをこの学校に残したままでいる、そしてそれが僕へ宛てた手紙だったとしたら。
僕が忘れ物を取りに行かないと言った時、ホッとしていたことも、僕がついて行きたいと言った時に悩んだことも、今僕の目の前で僕よりも早く下駄箱を確認して一つ息をついたことも、その全てがそう捉えられる。
なかなかに稚拙な推理だと思った。きっと探せば粗はいくらでもあるだろうし、ただの推測だ。しかし朧げながらに終着点が見えてしまったからこそ、ここまで根拠を積み上げた。
黒塗りの下、差出人の名前は川口真白。僕の書いた恋文の宛名。
「ごめん。君の探し物は僕が持っている」
とは、口が裂けても言えなかった。僕のポケットには手紙が入ったままで、それを出す勇気も、僕にはなかった。
いつのまにか雨が降り出していた。夏の厄介な土砂降りだ。この前は白く輝いていた校舎は今は灰色に濡れ始める。
僕は何も言わずに下駄箱を離れた。
彼女は僕が謝罪をした真意をどこか掴めていないようだった。かと言って説明することもできず、どうか今日のことは忘れてくれないだろうかと願った。
彼女は傘を持っていなかったようで僕は自分が持ってきた傘を差し出した。彼女は一度は悪いよ、と言って拒んだが教科書が濡れてはダメだからと言うと受け取ってくれた。
帰っていくその後ろ姿を眺めつつ僕は昇降口の屋根の下で雨が上がるのを待つことにした。僕も濡れてはいけないものを持っている。
僕と川口があの日に会っていなければこの手紙は僕の引き出しの中でずっと眠っていたということになる。差出人もわからずに。
じゃあ僕は五年前にあの手紙の差出人を知る術はなかったのか。いくらか方法はあったかもしれない。
一つは差出人が誰か聞いて回ること。恥を捨てて片っ端から話を聞く方法だ。しかし、その方法は当時の僕も取らなかった。それに今となってわかるが、その行為は名前を黒く塗りつぶした本人の意思を完全に無視している。当時、そうしてなくてよかったと心の底から思う。
もしくは僕が彼女に告白することだった。
結局、僕は名前を塗り潰すどころか自分の気持ちまで黒く塗りつぶしていた。
雨は止まることを知らずに降る。長い雨と長い夏休みは憂鬱で退屈だが今は僕には必要な時間だった。
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