恋とか愛とか惰性とかなんでも良いので、関係性に名前をつけてしまいたい

『結婚して、マンションの隣同士の部屋に住みたい』という話になった

当然のように結婚をして、子どもとパートナーともしかしたら、親までいるかもしれない家で暮らし。。。なんて考えていた20代

お互いに自立をしつつ、共同でマンションとかローンで買って、子どもに恵まれなくてもDINKSなんてのもありだよねなんて思っていた30代

そして、やってきた40代
『結婚したとしても、同じマンションの隣の部屋とかが良い』
である

予感はしていた、30代後半くらいから、「あ、自分、人と暮らすの厳しいタイプだ」と

何もかもを自分のペースで過ごした時間がもうすぐ人生の半分に達しようとしていて、人と暮らすという感覚を忘れてきている
「いつ帰るんだろう」と隣でテレビを観る相手に思ったり、「洗面台にもの増えて困るな」と感じたり
小さいことが、小さな景色の変化が引っかかる
なぜだろう
20代の頃は、何もかも一緒が嬉しかった
ペアのもの、共有することが至福だったし、どこに行くにも一緒にと思ったこともあった
でも、そんな時間が、永遠となることはなく終わっていく中で、だんだんと悟り始める

わたしには、難しいことなのかもしれないと
誰かと時間も場所も共有して暮らしていくということが

その一方で、どうしてか、関係性が途切れない相手というものがいる
時々他愛のない話をして、年に数回だけ会い、思い出は増えていく

恋でも愛でもない、惰性とも違う
友情かと聞かれると、それもしっくりはこない


あるとき人から聞かれた
『そこまで長く繋がってて、もし、何かのキッカケで結婚を提案されたらどうするのか』と

悩むこともなく、「二つ返事でOKします」と答えていた

でも、そこに、世間一般的な恋愛のアレコレが伴うのかというと難しい
同じ空間にいる時の空気が、ただただ居心地が良いのだ
ただ、一緒に暮らすとなると、何かが違う
そんな関係
で、冒頭の『結婚して、マンションの隣同士の部屋に住みたい』に辿り着いた

それ、結婚する意味ある?と友だちに突っ込まれたのだが、そもそも、そんな提案されてないという前提が忘れ去られて、謎に、一緒に住みたい(住むのが当たり前でしょ)派VS住みたくない派の討論にも発展してしまった

ごめんよ、まずもって、前提の提案は特に受けていないのだ
期待に添えず、私の力不足ではあるが、まさかそこから端を発した討論にまで発展するとは思ってもみなかった
両者一歩も譲らず、討論は物別れした

そして、そんな一見、冷めているようなことを言ってる一方で、20代の頃に培ったマインドが消え去った訳でもなく、もはや病的ともいえるようなくらいの重めの恋愛観(束縛を通り越して拘束と言われた)を持っていたりもする

そらを思うと、ベースが重めの恋愛観過ぎるので、やっぱり、相手のことを思って、『マンションの隣同士の部屋に住みたい』で中和するくらいがいいのかもしれない




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?