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HowRADareyou

生まれて初めて当事者として受け取った「大事なお知らせ」は、あまりにも突然のものだった。


わたしがRADWIMPSと出会ったのは、2008年の秋。気づけばもう7年も前のことになっていて、今書きながら吃驚したんだけれど、きっかけは本当にアホみたいなことだった。当時(今もだけど)特撮オタを拗らせていたわたしは、電王が好きすぎるあまり公式だけでは物足りず、MAD動画を漁っていた。「ウエスタンショー」「コンビニ」などといった楽曲に合わせて電王のキャラクター達のイラストが可愛らしく踊りまくる動画を必死で見漁っていたその時期に、タイトルに入っていた「寒色組」という言葉に惹かれて何気なくクリックした1つの動画が、わたしとRADWIMPSとの出会いだった。


【手書き】寒色組で有/心/論【電凹】」(当時のわたしが見た、YouTubeに転載されていたものはもう消されてるみたい)。「目から磯の香りがするんだぜ」と説明欄に書かれたその動画の内容自体は、寒色組(ウラタロスとリュウタロスという電王の登場キャラの俗称)を兄弟に見立てた、ありきたりといえばありきたりなもの。今も昔も腐女子ではない自分は純粋にその2人が可愛くて仕方なくて、この動画を見た感想もはじめはイラストを見て「ウラちゃんとリュウタ可愛いねえ」程度のものだった。だけど、繰り返し見ているうちに曲の歌詞が耳に入るようになってきて。「自殺志願者」「人間信者」「白血球赤血球その他諸々の愛」と、不思議な言葉が耳に留まるようになってきて。どうにも気になったので調べてみたらその曲はRADWIMPSというバンドの曲で、歌詞を書いているのは野田洋次郎という人で。「不思議な言葉を書く人だな」「他にはどんな曲を書いているのかな」と思い、YouTubeで「RADWIMPS」と検索したのが、RADに興味を持った最初の一歩だったんだと思う。


検索して、真っ先に聴いたのが「愛し」「いいんですか?」の2曲。RADらしい、珠玉のラブソング。当時「好きな人は?」と聞かれれば「佐藤健」と即答するくらい恋愛とは縁遠い女子高生だったわたしは、「愛し」の歌詞を見てとても吃驚した。

君はそう きっとそう 「自分より好きな人がいる」自分が好きなの
今は 言えるよ 「自分より好きな君がいる」今の僕が好き

それまでの自分が持ったことのない感情だった。そんなに思う程に誰かのことを好きになったことはなかったし、まして(というか、さすがに)佐藤健にそこまで強い感情を抱いていたわけでもなかったし。野田洋次郎という人が書いた歌詞を通して、彼の目を借りて見た世界には、愛しか無かった。畏怖に似た感情すらも抱きながら、それでも彼の視点をもっと知りたくなった。そして次に開いた動画が、わたしがRADWIMPSというバンドに恋をするきっかけとなった。

満天の空に君の声が響いてもいいような綺麗な夜
悲しみが悲しみで終わらぬよう せめて地球は周ってみせた

本当に伝えたい想いだけはうまく伝わらないようにできてた
そのもどかしさに抱かれぬよう せめて僕は笑ってみせた

思い入れとか関係なしに音楽を聴いただけで涙が流れたのは、生まれて初めての経験だった。文字通りの「満天の空」のような美しいメロディと、弱くて強い、優しい歌詞と。思えばRADWIMPSは、わたしの22年の人生で唯一、歌詞先行で好きになったアーティストだ。基本的に、わたしはメロディ厨だから(9mmの曲とか、未だに歌詞を見て「あ、こんなこと言ってたんだ!」って驚く時がある)。何を言っているのかよく咀嚼できない歌詞もあったし、多分今でも100%この曲の歌詞を理解できているわけではないんだけれど、洋次郎の書く歌詞は温かくて、美しかった。中でも心を惹かれてしまったのが、以下の歌詞。

今開いていたページの上に描いてみようかな
『離さないよ 繋いでたいの 僕は僕の手を』

何かに迷った時、戸惑った時、未だに立ち返るのがこの言葉。この歌詞があるが故に、わたしの「座右の一曲」は永遠にこの曲であり続ける。


それからはもう、狂ったようにRADばかりを聴いていた。月のお小遣いが6000円とかだった当時のわたしにとって、アルバム1枚3000円はなかなかの支出だったけれど、確か好きになってから3ヶ月くらいで旧譜アルバムは揃えたように記憶している(実は一番好きな3rdはレンタル落ちでしか持っておらず、いつか買い直そうと思ったきり今に至っている)。当時のRADはちょうどリリースが落ち着いている時期、というかむしろ「活動してんのか?」と心配になるくらい何の音沙汰もなかった時期だったから、わたしは思う存分旧譜を漁りまくった。驚くほど、すべての曲が好きだった。


わたしが心酔していたのは、RADWIMPSというバンドそのものだけではなかった。洋次郎の紡ぐ言葉や音楽に惚れ込んでいたのはもちろん、桑、武田さん、智史くんというメンバーのことも大好きだった。こんなに凄い音楽を紡ぎだす4人組なのに、うぃんぷすれぽ(当時はそこそこ更新されてた)から垣間見える4人はあまりにも普通の若者だった。すごくよく覚えてるのは、智史くんと武田さんの更新だったと思うんだけれど、桑・武田さん・智史くんの3人をそれぞれ「肉・メタボ・骨」に例えていたブログ。今思うと、アイドルを好きになる感覚に似ていたのかな。あまりにも可愛らしいそのキャラのせいで、わたしが好きになったのは「野田さん」「山口さん」じゃなくて、「洋次郎」「智史くん」だった。武田さんだけは「武田」と苗字を呼び捨てするのが申し訳なかったので「武田さん」だったけど(笑)。


どうやらまだまだ長くなるな、この話。書きながら、それだけ好きなバンドなんだな、と痛感している。


そうこうしているうちに、『アルトコロニーの定理』が発売になった。すごく嬉しかった。初めてリアルタイムで手にした「新譜」は、とにかく緻密に作られた1枚だった。アルバム発売に伴って、メディアへの露出が増えたのも嬉しかったな。当時発売になった音楽誌でインタビューが掲載されていたものは、今でも全部取ってある。ラジオを初めて聴いたのもその頃だった。RAD目当てで聴き始めた「SCHOOL OF LOCK!」でチャットを好きになったり9mmを好きになったりもした。


程なくしてツアーも始まったんだけど、このツアーは行かなかった。部活で忙しかったとかかな、理由はよく覚えていないんだけれど、応募さえもしなかったような記憶がある。わたしがようやく生でRADの音に触れたのは大学生になってから、2011年4月29日。『絶体絶命』のツアー、「絶体延命」のさいたまスーパーアリーナ公演。自分で行きたいと思って、自分でチケットを取った初めてのライブ。白い幕の向こう側で演奏された1曲目の「億万笑者」は、今でもすごく鮮明に覚えている。幕が落ちてようやく4人の姿を肉眼で見ることができた時は、誇張でなくて涙が流れたっけ。誰かを見ただけで涙が流れたのはあれが初めての経験。そう考えてみると、わたしはRADというバンドにたくさんの「初めて」を奪われている。


四六時中聴いていたRADと少し距離ができたのは、『絶体絶命』を聴き、「絶体延命」ツアーに参戦した後くらいからだったかな。それまでは「初めて自分でチケットを取るライブはRADWIMPSじゃなきゃ嫌だ」と思っていたから、ほとんどライブに行ったことがなくて。両親に連れて行ってもらったDEENや、伯父に連れて行かれた谷山浩子くらいしか行ったことがなかったんだけど、ようやく自分の「初めて」をRADに捧げられたもので、箍が外れたようにライブに行くようになった。そうすると、どうしてもライブの多い9mmやユニゾンに割く時間が増えていって。遠征する気がなかった(当時は…)から、「春ウララレミドソ」は行ったけど「青とメメメ」は行かなかったし。そんなわけでいつの間にか、RADを聴く時間も回数も減っていった。


聴かなかった期間、RADのことが嫌いになったわけではない。むしろ、RADの音楽とちゃんと距離を取ることができて良かったと思っている。多分あのままずっとRADだけを聴き続けていたら、息が詰まってしまい、彼らのことを好きなままではいられなくなっていただろう。そのくらい、RADはわたしにとって特別すぎる存在だった。だから、彼らの一挙手一投足が怖かった。一番怖かったのは、洋次郎のソロ・プロジェクト「illion」の始動。あれを知った時は本気で、RADはもう見られないのかもしれないと覚悟した。どうにか読んだ英語のインタビューで洋次郎は「メンバーと自分が見ている景色は同じではないのかもしれない」というようなことを話していて、それがひどく怖かったのだ。自分は洋次郎の音楽に心酔してると思ってたけど実はそうでもなくて、本当のところわたしが大好きだったのはRADWIMPS4人が奏でる音楽だったんだと思う。そういうわけでillionのアルバムを買いはしたけれど、実は未だに3、4回程度しか聴いたことがない。illionのライブを見てみたかったという気もするけれど、TOKYO ROCKS(だっけ?捨てヤンって呼ばれてた例のイベント)が中止になって、日本でillionのライブがなくなって良かったと今でもどこかで思っている。洋次郎の音楽を鳴らすのはRADの4人じゃなきゃ嫌だ、と。


その危惧はしかし、現実にはならなかった。2013年12月11日、『×と○と罪と』発売(自分の誕生日にフラゲしたのでこの日付は忘れる筈もない。Wikipediaの発売日が間違ってるので誰か直してください)。このアルバムについては以前長々と書いたことがあるのでここでは割愛するけど、RADWIMPSはやっぱりRADWIMPSだった。新譜が出る度に「今度の曲をわたしは理解できるだろうか」って不安になって、でもその不安も含めてぎゅっと抱き締めてくれる、RADはそんなバンドのままだった。アルバムツアーの「実況生中継」には2度参戦していて、そのどちらを見てもRADはやっぱり凄いバンドで。結局、このバンドのことを嫌いになることはできないし、この4人にはついていかざるを得ないんだろうな、と思った。


今年はサマソニを見に行きたかったんだけどお金がなくて行かれなくて、だけど発表されたばかりの「胎盤」ツアーでは、ラインナップにいきものがかりの名前があったりなんかして。妹が一番好きなアーティストと、わたしが一番好きなバンドの対バンにもう舞い上がったりなんてしていて、チケットが取れたかどうかも分からないけど今からその日は会社を休もうと決めていて。そんな矢先の、青天の霹靂だった。


ドラムの山口智史が、持病の悪化により活動を控え、休養に入ることになりました。自分の思うようにドラムを叩けなくなったことが原因です。


最初に「無期限の休養」という文字を見た時は、率直に言って、意味が分からなかった。持病なんて、寝耳に水。イルトコロニーの頃からって、じゃあわたしが見た智史くんはずっと病気と闘いながらドラム叩いてたってこと?と思って。確かに「智史の調子が悪かったから皆でサポートした」みたいなのはインタビューで何度も聞いたことがあったし、ドラムが完全に消える瞬間があったらしいというのも知っていた。だけど、だからって病気だなんて思ってもみなかった。人前に立つ仕事をしている以上、全てをファンに晒している筈がないし、智史くんが病気だということを知っていたからといってわたしたちに出来ることなんて何一つなかった。そんなことは分かっている。分かっているけれどそれでも、何も知らずに「智史くんは笑顔でドラム叩いてるから見ていて楽しい」なんて言ってた自分が悲しかった。動かなくなるかもしれない足で、どんな想いでドラムを叩き続けていたんだろうって思った。わたしには想像もつかない恐怖だと思った。


勝手に何度も「このバンドは終わってしまうんじゃないか」と危惧した、大好きなバンド。わたしが危惧する度にそれは杞憂で終わっていたんだけれど、RADはわたしなんかの預かり知らぬところで、思いもよらぬ理由で危機を迎えていた。だけどRADは智史くんの脱退を許さず、進み続けることを選んだ。サポートドラマーを迎えて、智史くんがそのサポートドラマーにRADのドラムの全てを伝えることで、秋からのツアーもそれ以降のスケジュールも敢行することを決めた。


正直言って、わたしはまだ見ぬサポートドラマー氏に少しだけ同情してしまう。だって、RADは多くの人にとってあまりにも大きな存在だから。昨日の夜はずっとTwitterを見ていて、「智史くんが居てこそのRADWIMPSだから、ずっと待ってます」なんてツイートを大量に目にしたんだけれど、そんな中で智史くんのかわりを務めるサポートドラマーは一体何を思うのかなって。もっと言ってしまえば、言いたくないけれど言ってしまえば、智史くんがRADのドラマーとして再びステージに立つという保証はどこにもない。それでもサポートドラマー氏はメンバーにはなり得なくて、ずっと「サポートドラマー」で在り続ける。そんなの、わたしだったら耐えられないなって思ってしまったりなんかして。


そんなこと、4人はきっと散々考えただろう。わたしが思いつくようなことは全部散々考えて、それで出した結論が「脱退」でも「解散」でも「活動休止」でもなく「智史くんの休養」だったんだろう。それはRADの公式発表文を見るだけで十二分に伝わってきた。フォーカル・ジストニアという病気のことを丁寧に説明してくれた上で、どういう経緯で智史くんが休養することになったのか、これ以上ないくらい誠実に説明してくれたから。2015年になってからたくさんのバンドの「大切なお知らせ」を見てきたけど、RADの「大事なお知らせ」が群を抜いて誠実だったと思っているし、本人たちの言う「プロのミュージシャンとしての、社会的責任」をはたしていると思う。頭では分かっているけど、気持ちがついていかないのだ。これが、「大事なお知らせ」を当事者として受け取るということなのかな、とぼんやり思った。実際のところわたしは当事者でも何でもない、ただの一ファンなのだけれど、あれこれ考えずにはいられなかった。それだけ、RADのことが好きだった。


一夜明けて、今ひとつ動ききらない頭で仕事を終え、「智史くんがドラムを叩く姿を見たい」と思って「会心の一撃」のライブ映像を見た。こんなに楽しげにドラムを叩いているのに、この姿を当分見ることができないなんて。やっぱり実感はなくて、ぼーっと動画を見ていた。すると動画の最後、洋次郎が「大丈夫だ」と言ったのだ。過去のライブ映像なんだから今のわたしに向けて言っているはずがないし、智史くんのことを言っているわけでもない。何一つとして「大丈夫」じゃないのに、根拠のないその「大丈夫」はわたしの胸に染み渡った。洋次郎のたった一言に救われるのは、これで何度目になるだろう。たくさんの音楽と出会い、すっかり耳も肥えて大人になったつもりでいたけれど、根本のところでわたしは何も変わっていないんだな、と少しだけ可笑しくなった。

「いつまででも待ってるよ」なんて聞き分けのいいファンには、わたしはなれない。まだまだわたしの頭の中はぐちゃぐちゃだし、11月、どんな顔をして智史くん不在のRADWIMPSを観に行けばいいのか分からない。わたしができるのは、智史くんの一日も早い回復を祈ることと、これからのRADを見守り続けることだけだ。


S
あなたは僕らの瞳です
僕らはしょっちゅうグニャグニャ迷うけど
そんな時あなたはまっすぐな目を頼ります
どこを見てるんだろう
あなたが見てるその先を目指します
あなたは変わった
とても優しく強くなった
そんな変化もこんな近くで見れて嬉しいです
この前くれた大切な言葉
あれは僕の誇りです
死ぬまでずっと大事にします
ーー「独白」


今の智史くんが「見てるその先」に何があるのか、わたしには分からない。だけど、どうかそこに希望があれば良いと、切に願う。まじスゲービビり野郎なんて名前を冠した、それでいて余りにも強いバンドが、どうかこれからも優しくて強いままで居てくれますように。その瞳である智史くんがいつの日か必ず、「ただいま」って笑ってくれますように。

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