「ベビーカー」「ブランコ」「甘えること」それぞれの年齢制限について


「さっきの子、ぼくのこと見てたね」

 そう言われて後ろを振り返ると、息子と同じくらいの歳の女の子が遠ざかって行くのが見えた。


 日曜日の早朝、家族で近くの公園へ出掛けた。昨日遠出した疲れも何のその。息子は走ることが大好き。今日もいくつか遊具で遊んだ後、約束の時間ギリギリまで、芝生の上を自由に走り回っていた。

 駐車場まで戻る道を歩き出してすぐのこと。息子が「疲れたから乗る」と、荷物置きとして使っているベビーカーを指差した。

 「教えてくれてありがとう」と伝えてから、そこに置いてあった荷物を夫に託す。「お待たせしました。どうぞ」と私が言うと、息子が飛び乗った。


 さっきのセリフ。
 自分を格好良く見せたい息子のことだから。
 てっきり「ぼく赤ちゃんじゃないし。恥ずかしいから降りようかな」の意味で受け取っていた。けれど、次の言葉ですぐに、違うとわかった。

「あのね、さっきの女の子、ぼくを見ていいなーって、小さい声で言ってたんだよ」

 すれ違った女の子のそばには、その両親と、ベビーカーに乗った赤ちゃんがいた。
 わからないけど。もしかしたら、おねえちゃんになったことで生まれた気持ちのひとつが、彼女の口から小さな声になって、こぼれたのかもしれない。


 息子は他人の傷は興味津々で見たがるくせに、自分の傷は(数ミリほどの小さな傷でも)「痛い」「歩けない」とパニックを起こして泣きじゃくる。
 時間に余裕があるときはいいけど、外出の予定が迫っている時なんかはすごく焦る。落ち着かせる方法もすぐには思い浮かばないし、その時々で正解も違う。ほとほと手を焼いていた。

 お友だち家族のやりとりでよく見かける「大丈夫、大丈夫、それくらい痛くないよ」で解決した試しがない。最悪の場合、エスカレートする。

 ひとつだけ、揺るがない正解を息子が持っているとしたら、「痛い」という気持ちをそのまま真っ直ぐ受け止めてもらうこと。


 ある時「おばあちゃんとおやつ買いに行きたいのに、ケガしたから靴が履けないの。どうしたらいいの!」と息子が涙ながらに訴えてきたことがあった。
 足を見ると、爪で引っ掻いたと思われる小さな傷。
 家を出る時間をとうに過ぎていた私は、少し早口で答えた。

「おばあちゃんは大きくなった君をずっと抱っこして歩くことが出来ない。とりあえず痛くないほうは靴を履いて、」

「今日は、いつも荷物置きに使ってるあのベビーカーに乗ったらいいよ。歩ける人でも、ケガをしたら治るまで車椅子に乗ることがあるからね」

「君を見て誰かが何か言ったり、笑うことがあるかもしれない。でも、おかしなとろこなんて一つもない。その人たちは君の事情を知らないだけ」

「おばあちゃんはわかってるから大丈夫」

 そんな手があったのか、と息子の表情が驚きに変わった。着替えを手伝って送り出す。ほっとする間もなく、私も足早に自宅を後にした。
 後から聞いた話では、結局ベビーカーには乗らずに歩いたらしい。だからと言って、嘘つきだとか大袈裟だなんて思わない。

 このやりとり以来、疲れを自覚できたときには休みたいと、少しずつ教えてくれるようになった。


 息子と遊んで帰ってきてご飯を食べ終わると、毎回どっと疲れが噴き出す。ソファに沈んで眠気と戦っていたら、息子の叫び声で目が覚めた。

「ブランコやりたい!ブランコにして!」

 リビングに置いてあるのは、1歳半から愛用してる、鉄棒・ブランコ付きのジャングルジム。最近は前回り・逆上がりの練習に使うことがほとんどで、ブランコはずっと埃を被っていたのに。なぜ。
 ああ、わかった。今日行った公園は珍しくブランコがなかったからだ。望みを叶えるために、だるい体をなんとか起こす。


 買ったばかりの頃は、足をぶらぶらさせて楽しそうにしていた。床に足がつかなくて泣くから、乗る時も降りる時も手伝っていた。
 なのに今じゃ、乗り降りは当たり前。安全ベルトも自分で出来るようになったし、漕げるようにもなった。

 それでも息子は今でもたまに「おーしーて」という。

 そばにいた夫が「自分で出来るのに」と、疲れ果てた顔をして嘆いていた。

 息子は毎日全力で生きている。余裕を持って付き合えるのは、現役のスポーツ選手くらいなんじゃないかと思うほど。

 温厚な夫だから、いつもなら仕方ないなって笑いながら、息子の気が済むまで押してるはず。だけど今週は、やっとたどり着いた連休に、仕事量が多かったことも影響して、特にしんどそうだ。

 その姿が自分に重なる。
 「食べさせて」と甘える息子を膝の上に乗せて、ひな鳥のように口にご飯を運ぶ。なのに、疲れが限界近くなると、こちらの事情を説明することすら億劫になって、「もう、自分で食べて」となげやりになることがある。我に返って、あとで謝ることが少なくない。

 優しくなれないときは、疲れているときだから。
 今は任せてしっかり休んで。夫に伝える。

 代わりにブランコを押すと、それまで不機嫌だった息子の、はしゃぐ声が聞こえてきた。
 いつまでもこんな風に、息子が望むまま、背中を押してあげたい。


 怠けたいわけじゃないのに。自分で出来ることが出来ない、したくないとき。それは心か体か、または両方が疲れてるサインだ。
 大人も子どもも関係なく、甘えたいときに甘えられる環境を整えたい。体が疲れたらのんびり羽を伸ばすように、心のシワだって丁寧に伸ばす時間が必要だと思う。


 そんな風に改めて思えたのは、帰りの車の中で息子が話してくれたからだ。

「ママも、ぼくみたいにベビーカーに乗りたい?」
「そうだねぇ、ヘトヘトなときは乗れたらいいなぁ」
「いいよ!ママが小さくなったら、疲れたときは乗ってね。ぼくが押してあげるから大丈夫だよ!」


 いくつになってもブランコが好き。
 私はもう小さくなれなくていいから、ずっと。
 年齢制限のないブランコで、いっしょに遊びたい。