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みらいをつくる

2020年6月に横浜市役所が関内から桜木町に移転しました。

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地下2階地上32階、低層部に商業施設「ラクシスフロント」を抱え、約6000人の職員が働くこの新庁舎ですが、実はすぐ横に高速道路が走っており、この写真の中にも写り込んでいます。

さて、どこか分かりますか?

正解はこちら。

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庁舎から桜木町駅へ続く「さくらみらい橋」から見るとこんな感じになっています。

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今でこそ地下に高速道路が走っていることなど珍しくもありませんが、この道路計画が出された昭和43年頃は「高速道路は高架に作る」というのが一般的だったようで、地下にして欲しいという横浜市の要望など国にしてみたら「はぁ?お前ら頭おかしいの?」くらいだったと聞いています。

ただ、横浜の都市デザインの礎を築いた当時の飛鳥田市長や周辺の地元住民の強い想いと、田村明氏ほか横浜市企画調整局の調整力により実現した…という経緯はこちらに詳しいので、お時間ある方はぜひご一読を。

高速道路の地下化自体は皇居周辺、あるいは東京駅の前などで当時すでに行われていました。しかし、横浜は、空襲・接収で東京と比べ相対的に地位が低下しており、横浜は高速道路の地下化が必要とされるような状態ではありませんでした。田村明さんもそういった状況をみて、地下化ではなく、高架方式で提案されていたのでしょう。ただ、この提案書では、すべて横浜の関内デルタ―大岡川、中村川、そして、実は山下公園のところにも高架の高速道路が通る計画案が示されています。その通りにできていたら、横浜の景観は現状とかなり異なるものになっていたはずです。

と、書かれているとおり上の写真の部分が高架道路になっていたとしたら、全く違う景観が広がっていたことは想像に難くありません。

みなとみらいも今でこそあのような街並みになっていますが、当時はまだ草ぼうぼうの荒野で、私は当時横浜でも町田に近い方の緑区に住んでいたのですが、祖父母の家が石川町にあったので、遊びに行くたびにこの草ぼうぼうの風景を見ながら電車に乗っていたことをよく覚えています。

その後、六大事業を経て、現在の横浜の街並みが形作られていったわけですが、そう考えると、横浜市の過去の先人達の50年後、100年後を見据える力がどれだけ途方もなかったかというのがよくわかります。

現在はハード事業からソフト事業強化に移行し、「創造都市」「共創」「イノベーション都市」などをキーワードに様々な施策が展開されていますが、さくらみらい橋を通って地下に走る高速道路を見る度に、過去の偉大な先人達の系譜を受け継ぐ者として身が引き締まる思いを感じるとともに、そうした立場にいられる幸運も感じるのでした。

横浜の都市デザインについて詳しく知りたい方は、某先輩がまとめたこちらもぜひご覧ください♪