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運動音痴の私にスポーツがくれた悲しい思い出

私は運動音痴です。
今でこそネタにできる年代ですが、ちょっと笑えない話。

どれくらいかと言われると、だいぶ。

クラスに1、2人くらいは居ましたよね。あの子とあの子は運動音痴だよねっていう子。
その子たちよりさらに運動音痴で、私のことを運動音痴だなんて口に出してはいけないようなアンタッチャブルな存在なぐらい。

グラウンドをクラスみんなでよーいドンで走るとすると、一週目が終わる頃には最後尾という感じの子が出てくと思いますが、その子より数十メートル後方に私は居ました。

障害の有無を出すのは令和ではナンセンスですが、生まれつき心臓や運動機能に問題があったり、発達的な遅れがあるわけでもなく、五体満足の健常児。強いて言うなら身長が低いくらい。
でも、身長が低くても走るの早い子はいますよね。

単純に私は運動のセンスがないのだと思います。みんながやっているように、見た通りに体を動かしているのに。球技も陸上も海上も器械体操も何もできなかった。

スポーツがくれるものって必ずしもいいものではなくて、私にとっては悲しい思い出とトラウマでした。

■幼少期:運動音痴に気づかなかった

体が小さいので、他の同年齢の子より階段を登るのに苦労をした。皆はスイスイと登っていくが、私には太ももまである段差なために、手を使って這うように階段を登る。
自宅でもそうだった。

実は、恥ずかしながら、自宅では思春期を迎えるまでそれが普通だと思ってました。

田舎出身で近所に駅など無く利用する事がない。
ビルもない。
平家か2階建ての戸建ばかり。
階段を登る機会がない。
友達の家に行った時は、自宅と同じように手をついて階段を登っていた。

小学校の階段は、流石にカッコ悪いなと自分で思ったのか、手すりを使いながら体を押し上げた。かなり低めの段差だったが、登り切る頃には息切れがして、それを隠すのに必死だった。
でもそれが運動音痴を自覚する要因ではなかった。今思うと筋力がないだけかなぁ。

実は今も階段は苦手です。
3階に上がるのはしんどい。

■思春期:運動音痴を自覚する

小学校3年生くらいから、体育と運動会が大嫌いだった。運動全般嫌いだったが、1番嫌いな走る姿を全校生徒、父兄全員に見られるのだ。

通っていた小学校では運動会が5月と9月の2回あり、それに加え週に4回体育の時間があった。毎日が地獄だった。

子供だから、という目で大人や周りの人は見るかもしれないけれど、運動音痴を代表して言わせてもらうと、運動音痴の子もわざとやっているわけではない。
できれば1位のあの子のように颯爽とテープを切りたい。でもできない。そういう葛藤と、「1番ビリ」というレッテルにプライドはズタズタなのだ。
運動音痴だから、無理だから、と自分が周回遅れで注目されて待たれて終わる体育の時間を、1ミリも受け入れてなんて居ない。

毎回体育の時間の前は逃げ出したい。
転んで体育ができなくなりたい。
また笑われるんだ。
私のせいでみんなが無駄な待ち時間を過ごすんだ。
先生も呆れるんだ。
もういなくなりたい。
でもそんな度胸はない。
ここで逃げ出したらそれこそ問題になって注目を集めてしまう。
とにかく体育ができなくなりたい。
今日はどんな恥をかかされるのだろう。
学校が爆発されて欲しい。
明日になったら学校が消えて無くなれば。

毎回、体育の前はこんな気持ちでした。
小学校3年生の時くらいかな、この感情になったのは。そしてこれが高校卒業まで続くのだと、自分の将来が怖くて仕方ありませんでした。
今でこんなに辛いのに、積み重なって高校生になった時は自分という人間は耐え切れるのだろうか、いっそ…と何度も枕を濡らしました。

…われながら、かわいそうだ。
学校の体育の時間でこんなに悩んでいる小学生がいるんだって、誰か気づいてくれてたかな。

そしてとうとうやってしまったことが、2回ある。もう嫌で嫌で消えてなくなろうとしたこと。

■小学4年生:首にコードを巻く

体育はマット運動だった。
マット運動って、1人ずつ技を披露するんですよね、流作業のように。
私は、前転しかできませんでした。なので、1時間先生の笛の合図に合わせて無様に転がることしかできません。

何もできない私を見ても、クラスのみんなは何も言いませんでした。決して運動音痴だからって私はいじめられてもないし友達も居ましたし、恵まれていたと思います。
でも、子供のころなんて箸が転ぶだけで面白いのに、私の姿をみて笑っちゃう子もいるもんです。その子を責めるつもりもありません。

ただただ、それでも苦痛な時間でした。

もう、嫌すぎて嫌すぎて、毎回ズタズタにされるプライドと羞恥心と劣等感で、体育が始まる前はスッと血の気が引いていました。そして、死のう、と小学生ながら思ってしまったのです。

泣きながら、遺書というものを書いて、死んだ後に見つけてもらえるよう机の引き出しの1番目立つところに入れました。

家族が誰もいない夜中を見計らって、泣きながら、スーパーファミコンのバッテリーコードを首にまいて、思いっきり引っ張りました。

そんなじゃ死ねないですよね。
そう、自殺の仕方なんて知らないし、突発的でした。泣きながら、苦しくて、力が入らなくて諦めたと思います。

「運動できないのが恥ずかしくて毎日が辛いです」とかいた遺書をクリアファイルに入れて机の奥深くに隠して寝ました。

■高校2年生:階段からジャンプ!

とことん器械体操が嫌いなのか、この時もマット運動でした。同じです。
でも、この時は高校2年生のクラス替えがあったばかりの授業で仲のいい友達も少なく、そんな中であの醜態を晒すことが恐怖でした。

朝、自宅の階段1番上から思いっきりジャンプしました。

ベッドから出たら、部屋を出たら、階段を降りたら、学校に行かなきゃいけない。何十分も階段の1番上に立っていました。

怖いし死ぬかもしれないし歩けなくなるかもしれない。けれど、その後に待ち構えている羞恥心の方が死ぬほど怖かった。
体育が終わったらいじめられるんだって、友達みんないなくなるんだって思っていました。

結局は打撲で、しかし歩くのは痛くて、体育の授業は見学しました。ズル休み、になるのかな。でも少しも、やった!休めた!という気持ちにはなれなくて、体育が嫌で階段から飛び降りて自傷行為をしたっていう事実に、今度は苦しめられることになりました。

■努力したことだってある

走るのが遅い、マット運動が1番苦手といって何も努力しなかったわけではありません。

家で布団をひいて姉に教えてもらったり自分で練習したり。
母が家事の合間を縫ってランニングに付き添ってくれたり、中学時代も高校時代も一緒に学校が終わったあと走ってくれる友達も居ました。

高校時代はお昼休憩にバレーのサーブが1度もネットを超えたことがない私を見かねて、バレー部の子が集まってサーブ特訓をしてくれたこともありました。

そして体育の授業でサーブが回ってきた時に、先生も相手チーム全員が私のサーブ失敗を確信した中で初めてネットを超えた時に、泣いて駆け寄ってくれたバレー部の友達には感謝です。
あれが唯一の、スポーツで感謝したい思い出でした。ありがとう、みんな。

でも、どれだけ練習しようと、運動音痴には変わりなかったのです。
それでも私は、人に恵まれていたんだと思います。

6歳から18歳まで、12年間体育の授業を受けてきましたがその中で「運動なんて嫌いだ!」とトラウマになる出来事は片手くらいかな?あります。長くなるのでここには書きませんけど…。

それがきっかけで自分の体を粗末にしようとしたことがありましたが、正直に言えます。


生きててよかった。

小学生の時の机の中の遺書ですが、18歳で実家を出て夢を追いかけて専門学校に入学するときに、破って捨てました。
荷造りをするときに出てきたソレを、長いことよく耐えたなぁ、頑張ったなぁって自分を褒めながら、絶対に見つからないようビリビリに破いてやりました。

今も幸せとは言えない環境かもしれないけど、うん、やっぱり生きててよかった。

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