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⑫今だからこそ考えてみたい。ジャッキー・チェンがハリウッドで成功したわけを。

前回の記事はこちらになります。

さて、ラッシュアワーを語りたい

が!!!!

ジャッキーのインタビューはあっても、クリス・タッカーとの2人でのインタビューがないな~

2からはあるんだけどな~


今回は、ジャッキーがハリウッドで「映画人として」どのように受け入れられて、「ラッシュアワー」が作られていったかの話。


スタローンは、僕に現場を見せるために、わざわざ午前中の撮影を遅らせていたんだ。そして、こちらの到着時間に合わせて、ちょうど最後のショットを撮り終えた。彼のキャンピング・カーまで連れていかれた。車内に入ると、彼はテレビをつけ、ヴィデオを流した。見ると、なんと僕の映画だった。彼がキャビネットの引き出しを開けると、なかにはジャッキー・チェンの映画がびっしりと並んでいた。 ー永遠の少年 ジャッキー・チェン自伝よりー

ある日シルベスター・スタローンから、自分のプレミア上映に来て欲しい(たぶん「クリフ・ハンガー」)と招待されてアメリカへ行ってみると、スタローンは「デモリションマン」の撮影をやっていて、その現場でスタローンから紹介されると拍手が起こりウェズリー・スナイプスからも熱烈歓迎のハグを受けてスタローンがそれをはがしたという内容が書いてあったのですがw


この時にスタローンは、アイデアが思いつかない時はあなた(ジャッキー)の作品を観る。(ジャッキーの作品から)学ぼうとしていると言っていたようですね。>共演の話は何度かオファーがあるものの、本当に実現して欲しいですよね~。


それと似たようなシチュエーションの話がスクリーンアーカイブズに載っていたのですよ。

「ラッシュアワー」製作当時、ハリウッドの映画プロデューサーたちはMTV出身の若い監督の起用する傾向にあったそうで

それがブレッド・ラトナーだったり「アルマゲドン」のマイケル・ベイだったりしたようですね。

そのMTV出身の若い監督たちは、こぞってジャッキーの映画を観ていたらしい。

これがハリウッドのベテラン巨匠だったら、そうはいかない。アクションの部分を僕に任せるなんてことはさせなかったと思うよ。そういう意味ではすごくやりやすかった。 ースクリーンアーカイブズ Vol.5 ジャッキー・チェン来日「ラッシュアワー」大ヒットでついにハリウッド・スターに✰ よりー

当時すでに映画製作会社の幹部やアメリカのスタントチームは、みんなジャッキーの作品のビデオを持っていて、何かしら学ぼうとしていたと。

この記事にも書きましたが、80年代~90年代に起こったビデオ文化というものが、アメリカでのジャッキーの認知度を支えるひとつになっていたのは確かなようですね。

ある一定の方々にとって、今まで現地まで行かなければ観られなかったものが、わざわざ行かなくても観られるようになったのは大きかったのだな~。


さて、「ラッシュアワー」の製作までに何があったのかというと

英語版のウィキに詳しく書いてありますね。

1995年にはロス・ラマンナにより手掛けた脚本が存在していたのか!!しかし最初に目を付けたのはディズニーの1部門であるハリウッド・ピクチャーズで

プロデューサーのロジャー・バーンボーム、監督ブレッド・ラトナーでプロジェクトは進んでいたみたいだったけど、その時は予算とジャッキーのアメリカでの認知度を懸念して一旦お蔵入りに。

その後にニュー・ライン・シネマが出てくるわけですね。

懸念があった、一般市民へのジャッキー・チェンのアメリカでの認知度が高まるようにプロモーションをかけた。

そして「レッド・ブロンクス(アメリカでの配給会社はニュー・ライン・シネマ)」で一気に認知度が広まった後に

「ラッシュアワー」製作へと勢いつくのです。

カーター役の候補にはウェズリー・スナイプス、エディー・マーフィーの名前もあったようなんですけども。

DVDの中に収録されていたインタビューの中で監督が言ってましたが

「ビバリーヒルズ・コップ」を超える作品が目標と

やっぱりそうなのかw雰囲気がちょっと似てるんですよねこの作品と。

エディー・マーフィーがカーター役を断るのもなんかわかるけどw

多分80年代の軽快さを当時のエディー・マーフィー自身が出せなかったと思うしw

「ラッシュアワー」の製作プロジェクトが本格的に始まった時に

ジャッキーは「WHO AM I?」の撮影をアフリカでしていて

監督のブレッド・ラトナーはプロデューサーのロジャー・バーンボームと一緒にアフリカまで出向いてジャッキーを口説き落としたようですね。

監督ブレッド・ラトナーには、ジャッキーをアメリカのスターと対等に渡りあえるバディ映画に出演して欲しかったようです。>ここで「ビバリーヒルズ・コップ」が持つ、異質なものを受け入れるあのノリが反映されてるように思います。

ジャッキーは数日後には出演を承諾してロサンゼルスへ飛び、クリス・タッカーと会っているとな。

でもまだ当時はアクションシーンの製作にかなりの違いがあったようで、ジャッキーからは不満があったようですね。>うん、良く知ってるw

アメリカ側からもアクション監督としてテリー・レナードが入っていました。

テリー・レナード(スタント)の代表作と言えば

「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」

予告編観るだけでも、ジャッキーがいかにこの作品からインスパイアされて色々な作品でオマージュしているかがわかりますね。

アメリカ側も大御所中の大御所を連れてきてたのね💦>上記の監督&プロデューサーの話も含め、それだけでもアメリカの本気度がわかります。

アメリカ側もそりゃ必死ですよ💦いくらジャッキーが自分でできると言っても、もし不慮の事故などが起きてしまった場合

国際問題に発展しかねませんからね。だから万全を期した形になったのだと思います。

しかしジャッキーにとって今までと違う点は、ジャッキーのスタントマンチーム、成家班がちゃんと製作の場に入った事。

これによって本来の持ち味であるジャッキーアクションが構築できたのです。

DVDやBDをお持ちの方は、是非観てほしいのですが

特典映像に「A PIECE OF ACTION~「ラッシュアワーの舞台裏」~」というのがあって、最後に中華店でのアクションのメイキングが入っています。

物語とアクションの剥離を防ぐための、ジャッキーからのアイデア出しとすり合わせ。久々に観たけども、

監督はともかくクリス・タッカーよくついて行ったなと思うw

ついでにバスター・キートン、ハロルド・ロイドなどの喜劇王の名を上げた挙句にジーン・ケリーの「雨に唄えば」のシーンがいかにすごいかを熱弁しているジャッキーも拝見できますw

是非ご覧あれ~(^^)


最後まで読んで頂き、ありがとうございます(^^)



私はジャッキー・チェンを良く知らない、最近知ったばかりの方へ向けて記事を書いていきたいな~と思います。 メリケンコさんのYouTubeで訳詞を提供しております。そちらもどうぞ https://www.youtube.com/c/moriatomerikenko/videos