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⑨今だからこそ考えてみたい。ジャッキー・チェンがハリウッドで成功したわけを。

『レッド・ブロンクス』で、スタンリーと僕は、できるだけ「国際的な」香港映画、つまり東洋だけではなく、西洋の観客にも受け入れられるような映画を作ろうとした。 ーI AM JACKIE CHAN 僕はジャッキー・チェンよりー

「ポリス・ストーリー3」で初タッグを組んだスタンリー・トン監督。この作品でも十分世界の方々には受け入れられる要素はあるとは思うのですが

いかんせん当時はまだまだ無名の1アジア人。

そこはジャッキーもよくわかっていたはず

ポリスト3には、次回の大本番へ向けての前哨戦のような意味合いの作品でもあったのではないかと思うんです。

そしてその大本番の作品が


この作品「レッド・ブロンクス」

製作総指揮:レナード・ホウ

監督:スタンリー・トン

脚本:エドワード・タン、ファイブ・マー

主演:ジャッキー・チェン

共演:アニタ・ムイ、フランソワーズ・イップ、トン・ピョウ


この記事にも書いている通り、キレッキレの80年代前半の時点でサモには「香港映画を世界に届ける」という思いがありました。

ジャッキーも、サモに言われてから改めて思ったのか、その前からサモと同じような思いを抱えていたのかは良くわからないですが

「スパルタンX」「サンダーアーム/龍兄虎弟」「プロジェクト・イーグル」と、海外ロケをしてそれなりの実績を積んだ&興行成績を収める事にも成功しているんですよね。


90年代のハリウッドといえば

80年代の栄華の極みは影を落とし、アイデア不足、人材不足が叫ばれていた頃ですね。

今日のリメイク作品、リブート作品の多さにも関係してくるのですが

ハリウッドではある意味やり尽くした感が出てきてしまい、新たな切り口での大ヒット作品が生み出しにくくなっていたんですよね。

そこでこの辺りが気になってくるんですけども

スクリーンアーカイブズvol.5に書いてあることによると

元々アメリカでは香港映画というのはアジア人、黒人、ヒスパニック系の人々に人気があり白人にはなかなか浸透しなかった背景があるようなのですが

87年のニューヨーク映画祭の「ポリス・ストーリー」特別上映をきっかけに(その後でサンフランシスコでも映画祭などで特別上映されたのかな???)白人の人々にもそれなりに評価、浸透していったようです。

そうなんですよね~90年代のハリウッドアイデア枯渇問題は、映画ファンとまでは言い難い私でも少々記憶の片隅にそんな事言ってたな~というのは残っているし、「レッド・ブロンクス」の話だったと思うのですが、アメリカの映画館には黒人の方々がいっぱいだったとTwitterのTLで流れていたのは覚えています。>その後、その辺りの話題が出てこなかったのでそれが本当だったのか(多分それが全ててはないだろうけど)判断ムツカシネ。

ご存知の方がいらしたら教えて下さい💦

ハリウッドのアイデア、人材枯渇問題と反比例して、じわじわと人気を上げてきた人物

それがジャッキー・チェンだった

マジ時代の流れに愛されてますやん。


ゴールデン・ハーベスト側では

ジャッキー×スタンリー・トンの「レッド・ブロンクス」がアメリカへの本格的な進出作品になると思っていたようですね。

この作品と共に、ジャッキーの過去作品をアメリカの配給会社へプッシュしようとしていたようです。その先に繋げようとしていたのが、ジャッキーの本格的なハリウッドデビュー作品を作りたいという思い。レイモンド・チョウとレナード・ホウの悲願の1つでもありました。

ジャッキーにとっても本格的に世界へ打って出る作品が香港映画であり、スタントマン出身の監督、アメリカ市場の変化、その他もろもろの要素がまるでジャッキーのためにあるような流れが作られたわけですよね。

時代に、そして世界に呼ばれていく形になったアメリカ。

そして全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げる。

アメリカでジャッキー・チェンブームが沸き起こるのです。


「レッド・ブロンクス」のアメリカの配給会社はニュー・ライン・シネマ。

そうそう、ニュー・ライン・シネマといえば有名な作品があるんですよ

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この作品です。

全てが繋がってきましたね(^^)

そして次回へ続く~



最後まで読んで頂き、ありがとうございます(^^)

私はジャッキー・チェンを良く知らない、最近知ったばかりの方へ向けて記事を書いていきたいな~と思います。 メリケンコさんのYouTubeで訳詞を提供しております。そちらもどうぞ https://www.youtube.com/c/moriatomerikenko/videos