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regret3

「ここを辞める……!?」

徹は上司である佐伯課長に退職をしたい旨を伝えた。徹の退職理由は明白だ。

誰よりも早く来て誰よりも遅く帰り、徹底した仕事ぶりを評価されていた徹。真面目を絵に描いたような男。彼の仕事に対する姿勢は厳しいが、何かがあれば面倒を買って出るとの評判が徹を強く印象付けていた。そんな徹を慕うものも多く、当然上役にも受けがよい。やっかみはほとんど聞かれない。そんな徹から退職願が出ることに佐伯は驚きを隠せなかったし、なにより課の士気が下がることを懸念したので、とにかく何とかして引き止めたい。

「随分、唐突だな。突然辞めたいなどと……」
佐伯は革張りのソファーに彼を招き、いった。

「申し訳ありません」

「『申し訳ありません』だけでは納得がいかないだろう。当然、こちらも君の退社理由を知る権利はある。もし今の待遇面で不満があるのなら上役にかけあってみようと思う。じっさい今、君に辞められたらわが課は大変困るのだ」佐伯は正直にいった。

木枯らしだろうか、窓をガタガタと揺らす。
笑里のいる来栖アパートの耐震整備は城東鉄工所が行うことになった。世間は狭い。そのうち彼女とひんぱんに顔を合わせることになるだろう。いっそのこと、この土地に来た事情を佐伯に告白してしまおうか、首になるのはそれからでもと彼は思った。佐伯のことばは、そんな彼の気持ちを揺さぶった。

ひとり身であり、慎ましく暮らす徹が生活に困っているとも思えない。が、退職要請がある場合は、処遇面への理由が多いと佐伯は思った。……いや、引き抜きかも知れない。Iというライバル会社がほうぼうに触手を伸ばしていることは知っていた。その油断ないやり方は警戒すべきとして頭を離れなかった。職能のある徹はヘッドハントされやすい……ほかに理由あるとしてもまずはじっくり話を聞くことだ。

「まあ、いろいろ理由はあるだろうが、先の事を含めよくよく考えてみてくれ。すぐに行動には出ないほうがいい。君の人生がかかっているのだから」

俺の人生など……とっくに終わっているのだ。ようやく借金は返済できる目処がついた。しかし家族親類とも縁を切ったも同然。いまさらどうやって顔向けが出来ようかとも思う。また、何の因果か娘の笑里がこの街に住んでいるのを知った。苦労が多かっただろう娘の姿を見た。父親としての不甲斐なさ。自分は良心の呵責に苦しみながらこの後の人生をひっそりと誰に知られずに送るのだ。それがせめてもの償いなのだ、と徹はぼんやり考えていた。

「ひとまず、一週間考えてまたその時に君なりの考えを聞かせてくれないか」そういってお互い持ち場についた。

来栖アパートには瞬く間に全国から3千万円の寄付金が集まった。(※日本では東日本大震災がきっかけとなり、復興支援のための寄付型のクラウドファンディングがスタートとなっている)

資金調達をする団体はNPOが主だが、企業や個人も可能だ。今回の来栖アパートのクラウドファンディングの目的は、生活困窮者など居住が困難な者への、居場所の整備だ。特に、高齢者は部屋を借りる際に不動産や保証協会の審査に通ることが難しい。そのため、審査なく誰でもが住む場所を確保でき、終の棲家としての住居をあっせんする団体という趣旨である。

笑里は『あなたはお金に悪いイメージを持っている』という一露子の言葉の意味を噛みしめていた。良い金、生きた金とは、まさしく価値を生み出す金であり、それによって人々が幸せに暮らすことができる価値あるものである。一露子のいう「対価」という意味ではない。皆だれもが高齢者になる。住むところに困った時、来栖アパートという存在は皆を勇気づけるだろう。

金色の並木通が続く大学駐車場には高級外車が一台。本村一露子である。海外進出を果たした彼女は、羽田から一路首都高を飛ばして、母校にやってきた。毎年、多額の寄付をしているが、今年は学校創立150年の年、その寄付金も億は下らないだろう。
車から降りたその足で、演劇研究会へと向かう。小劇場並みの舞台や装置、音響機器など、どれをとっても、最新式のものを使い、外部からは一流の演劇関係者が名を連ねる。
演劇研究会は彼女の趣味のひとつとして在る。高尚な趣味といってもよい。

創立150年にあたる今年の演目は、当然、彼女が好む「シェイクスピア」か「ゲーテ」に決まっているだろう、と信じて疑わなかった。しかし、耳を疑う今回の演目と主役に冷静ではいられない。
―――演劇研究会の演目はシラーの『群盗』に決定したですって?あろうことか、主役はあの、竹嶋笑里!?
一露子は、急ぎ練習場に向かう。そこでは、台本の初読みが行われていた。
主役の放蕩息子役「カール」役には竹嶋笑里、外面は菩薩のようにふるまうが内面は夜叉の弟役「フランツ」には後輩の立原あかね、カールの恋人「アマーリエ」役には松下優実が選ばれていた。
主役級は主に女子学生が、
カールの父、またカールひきいる盗賊団は男子学生が演じるのも、創設始まって以来だ。
『群盗』のストーリーは、旧約聖書の「放蕩息子のたとえ話」を、ドイツの劇作家シラーによって近代風に書かれたもので、「愛と許し」そして「裁きと報復」が2大テーマとなっている。
主役のカールが父から息子として縁を切られてやけになり、盗賊団のリーダーとなり悪事の限りをつくしたのち、破滅するという悲劇である。
笑里はいつかはシラー作のカールを演じたいと思っていた。なぜなら放蕩息子の行いが、実父の徹とどこか重なり、面影を見るからである。
今年は演劇研究会150年という節目。外部から著名な演出家を呼び、さながらオーディションのような緊張感。
しかし笑里は台本読み合わせ初日から、主役になりきり、つけ髭をたくわえて盗賊の頭の出で立ち。「私、形から入るので…」と勇ましい。その後、彼女の第一声が轟く。

「な、なんなのだ!この手紙は! これが…これが……我が愛する父上の、私への心なのかっ……!」
弟フランツにより書き換えられた、カールから父への手紙。それには兄カールの懺悔とはいいがたい、神にそむく恐ろしい悪事が記されていた。信じ難い手紙に震えおののく父親は、あまりのショックに病の床に……
すぐさま父からの返事には「お前とは縁を切る」との文字が……すべては、フランツが計った罠であった。
彼女の渾身の演技には、人間の二面性や矛盾が随所に見られ、演出家も息を呑んだ。
「荒いけど、表情やセリフに実感がこもっているわね」
演出家の日野光一が部長の中条太に囁く。
「…ええ。なりふり構わないのが彼女の特徴です」
「…あ、あら、女の子だったの~すごいわね~♡」

―――竹嶋笑里。私の人生の一部たりとも関わることは許さない。この私の目の前に立ち、その存在を認識させることも!意識させることも!邪魔することも!すべてにおいて!
一露子はまるで夜叉のような眼で笑里をとらえる。マネージャーの岩井月子は唇を噛んで怒りをあらわにする一露子を見て震えた。

初読みが終わり、笑里は急ぎ着替えて駅にむかう。これから来栖アパート耐震工事の打ち合わせで城東鉄工所に行かなければならない。工事期間は3か月。年内までに終わらせ年末には入院する母親の元へ。思えば目まぐるしい毎日だった。睡眠時間もあまりとれず、時折、めまいが襲ってくる。
城東鉄工所の正門についてすぐ、笑里は目の前が暗くなりその場に崩れるように倒れ、意識を失った。徹が慌てて駆け寄り名前を呼ぶ。

笑里は徹にいだかれながら、中学生のころの夢をみていた。
学校から家に帰ると、祖母が用意した軽食を食べてすぐに塾に向かう。笑里が帰ったあと、つづいて父母が帰ってくる。妹たちはすでに寝ている。笑里は今日あったことを両親に話したいが、彼らへの遠慮からか、それができない。しかたなく、部屋に戻り、妹たちを起こさないように、学習机のライトを調節しながら日付が変わるまで再び勉強する、という毎日が夢の中で反芻された。

季節風の吹くこの時期、築50年の来栖アパートは大変寒く、そこかしこの部屋から住人が出てきて、共有スペースに置かれたコタツに足を突っ込んでいる。
廊下の電話がけたたましく鳴った。
「おい、誰か出ろよ!」台所で夕餉の支度をしている元板前の岡が叫ぶ。
「すまん。さっき帰って来たばっかで、寒くて体が動かんのや」派遣の山下がいう。
「悪いんですけど櫛田さん、葱切っといてもらえます?」と脇にいた長老に指図しながら、岡は電話をとった。
「おい、大変だ!ついさっき、城東鉄工所で笑里ちゃんが倒れて病院に担ぎ込まれたって!」
「どこの病院だ?」
「××病院。今から様子を見にいっても、今日は遅いからダメだってよォ」
「笑里ちゃん、耐震補強工事の打ち合わせ資料をきのうも徹夜で作ってたから、寝不足だったんだろうな…でも『休め』っていっても全然いう事聞かないし…」作業員の秀さんがすまなそうにいう。
「…オレら、なんでもかんでも笑里ちゃんに頼りっぱなしなんじゃないんすかね?」新入りの徳さんが正論をいう。
「んなこたぁ、百も承知よ。資料作りとか頭つかうのは無理だけど、だからメシとか、買い出しとか、出来ることは手分けしてやってんじゃねェかよ。とにかく、明日、××病院に行ってみる。場合によっちゃ、入院費用の立替えを皆ですることになるかも知れんが…」
「入院費用ぐらい、オレ、工面できます」
「笑里ちゃん、個室に入れてやりたいな。差額ベッド代はオレが払うから」
笑里の入院費用について誰がいくら出すかの割合を真剣に協議した。

「軽い貧血ですね。娘さんはお若いから回復は早いでしょう。3,4日もあれば退院できますよ」そう医師に告げられた徹は、礼をいうと椅子に腰を下ろした。笑里はこんこんと眠っていた。点滴のおかげか頬には赤みがさしはじめている。

背を丸めてうつむいていると静寂ななかから、すうすうと寝息が聞こえる。目の前に眠っているのは、紛れもない自分の娘、笑里だ。

流浪生活で染みついた、強迫的で被害妄想的な観念は彼の判断力を妨げていた。さっきまでは聞こえなかったのに、鎌で草を刈るような音が耳の奥から聞こえて来はじめた。とにかくここを出たい。

急ぎ「入院同意書」にペンを走らせた。

―――続柄 父 竹嶋徹

入院にかかる費用は床頭台の引き出しにしまった。

「すまない……」

ススキの穂が朝日に照らされている。彼は、これから収監される囚人のようによろけながら駅の鉄柵に身を任せるように歩く。

ブウーン ブウーン……

濃い霧は行く者の影さえ見えなくさせた。かすかな草の匂いが漂う。

ブウーン ブウーン……

塞いでも塞いでも、まとわりつくように唸る。それはだんだん大きくなりながら近づいてくる。可聴域をこえる衝撃音は、彼の全神経を崩壊させてもなお飽きたらないらしい。

死神は彼の手をとる。彼も死神の顔を見、生命を明け渡すやり取りをする。死神の振る大きな鎌はブウーン ブウーンとうなりながら、ところかまわず切り刻んでゆく。

笑里は悪夢にうなされた。看護師は静注し、何度も寝汗を拭いた。
嵐は一昼夜つづいた。

特別室から見える秋の空はどこまでもつづいている。遠く富士山が見える。
笑里は看護師にいわれるがままに耐震計画資料が入っているだろう床頭台の引き出しを開けた。その下には、『入院同意書』と充分すぎるほどの入院費用が置かれてあった。何かの間違いではと思ったほど目を疑った。

彼女の入院同意書に書かれた

―――続柄 父 竹嶋徹

の文字。

ひと文字ひと文字が角ばっており、真面目で融通のきかない父親の性格をあらわしている。が、よほど急いでいたのか、書きなぐったふうにもみえる。

「……看護師さん、この入院同意書を書いた、私の父なんですけれど、竹嶋徹は今どこにいるのか、わかりますか?」

バイタルサインを測定し終わった看護師は、自分の父親の居所を知らないかと聞いてくる笑里を不思議そうに見て「さァ、わたしには…」というなり部屋を出ていった。

どういうことだろう。いまさら何だろう。
やるせない思いが涙になってあふれてきた。

院内電話が鳴った。

「松下優実様からお電話が入っております。おつなぎいたしますか?」

本来であれば、松下家はノーチェックで入室できる立場。だが、電話交換士は念の入れようで、患者本人から見舞客への入室許可が下りるまでは、相手がだれであろうとも入室を拒否する権限を与えられている。その病院の徹底ぶりに、大物政治家や芸能人は信頼を寄せる。

「つないでください」笑里は答えた。

少しして、優実が訪れた。ベージュのニットと秋らしいブラウンのフレアスカートが柔らかい雰囲気の彼女を引き立たせている。大きな黒目がちの目には、いままでの笑里の健闘をたたえるようにうるんでいる。

来栖アパートで笑里が育てたリンドウやコスモス、萩の花が咲き誇っている様子をカメラに収めてきてくれた。

「みちがえたように、きれいになって…」アパートは随所に清掃が行きわたっており、住人たちが毎日、交代で水遣りをしていることも教えてくれた。

「…優実ちゃんのお父様が最先端医療がそろったこの大学病院の特別室へ私を移すよう、お命じになったんですってね。私のような立場のものが入院できるような病院ではないから」

「……気にしないで」

「同情されているんじゃないのかって、思ってしまうのよ」

「笑里ちゃん。私の父はあなたのバイタリティーを買っているの」

「……?」

「区議会議員補欠選挙で、蓮杖さんが本村さんに数票差で勝ったこと覚えているでしょう?今回の蓮杖さんの勝利の要因は何だと思う?」

「…よく、わからないわ」

「組織票で勝つはずだった本村さんは、無党派層、いわゆる中間層という階級に所属する有権者の心理を分析していなかった。『無党派層を自分の側に置きなさい』としなければならなかった。だから負けたの。たぶん、驕りがあったのでしょうね。それが、なりふり構わない蓮杖さんが支持された理由ね。いち政治記者の卵としての意見」

「それと私に何の関係が…?」

「笑里ちゃんは、最悪の状態から最善の状態にする力を持っているって。それを今回の選挙で知ることができたって。父がいっていたわ」

「優実ちゃん、はっきり教えてほしいの。私のほんとうの病気のこと」

「……ごめんなさい」
優実はただ謝ることしかできなかった。
「ううん、私こそ、こんなこと優実ちゃんにきくべきじゃなかった」

みぞれから雪になった。信号機の灯火だけが闇に光っている。車の往来も少なくなり歩く人もまばらだ。
優実はベッドサイドに腰掛けた。
退院したら…
遊園地と、××屋のパフェを食べにいくことと、推し活ライブに行くこと、いい?今から約束ね、と指切りげんまんを交わす。ウソついたらハリセンボンのーます、ゆび切った!
むかし懐かしい遊びに、ふたりは大笑いした。
笑理はふと、「……この場にいて欲しかったのに、またどこかへ行っちゃった」
「お父様のこと…ね」

優実は6歳のときに当時8歳だった兄を不慮の事故で亡くしている。
「今回のことは、相当な理由があってのことだったと思う。ほんとうは笑里ちゃんのそばについていたかったはずよ」優実はいった。
「……笑里ちゃん、好きな人はいないの?」突然の恋バナに笑里の心は乱れる。
「おしえなーい…」
「もしかして、政経の落合クン?」図星をさされ、笑里はたじろぐ。
「ど、どうしてわかったの?」
「そりゃあ、あれを見たら、ね~笑」
「倫理学レポート事件!」
『倫理学レポート事件』とは、笑里が倫理学を論理学と勘違いした事件だ。論理記号や真理関数がぎゅうぎゅうに書かれてあったレポートを落合に指摘されて、提出する寸前にわかった。
「さりげなく、差し替えてくれたのよね~」その一部始終を見ていた優実は、「目がハートになっていたわよ」と笑里をからかう。ああ、そんなこともあったなぁ。でもこれで(病気で)留年は確実ね、と笑った。

看護師が笑里の乗った車椅子を押す。今日は定期健診の日だ。
病室の前には見慣れない男の姿がある。優実の父、松下久文代議士だ。彼はやり手政治家として政務官まで上り詰めた。つぎは副大臣とのポストも呼び声たかい。
ラフな紺色のコートに落ち着いた色のスラックスを着用、大学時代はラグビー選手だったこともあり上背があり堂々とした体躯である。相手を慮って気おくれを感じないようにとの配慮か、今日はいたってカジュアルな身なりだ。
秘書らしき者といたが、「では30分後に」と言い残しゆっくりとこちらに歩いてきて礼をした。突然訪ねてきたこともあり、話ができるかを訊ねる。笑里は緊張してすぐに挨拶を返すことができない。上質なハーバルノートの香りがほのかに漂う。
「優実からいつもあなたのお話は伺っています。その後体調はいかがですか?」
「…おかげさまで、あとひと月もすれば、なんとか復帰できそうです。この部屋は静かでいいですね。食事もとてもおいしいです」鼓動の高鳴りが収まるとようやくひとことふたこと喋ることができた。
「それはよかった。もっと早くにお見舞いに来ようと思ったのですが、優実から止められていましてね。昨日ようやくお許しがでたんですよ」
「優実さんは、試験前をのぞいてほぼ毎日、この時間に見舞ってくれるんです…」ベッドサイドの置き時計を見た。秒針は水晶の文字盤をすべるように動く。
「優実が定期テスト前で忙しそうだったので今日は私が。それにしても…ほんとうに良く似ているなぁ…」まじまじと涼しい瞳の笑里を見た。
「……似ている?誰に…ですか?」
「竹嶋徹君に、ですよ。本当に驚いたなぁ…」
「…父を、父をご存じなんですか?」
「ご存じも何も、彼とは親友の間柄でした。席も隣、部活もラグビーで、ポジションもスクラムハーフで好きな相手も…まあ、お互いがライバルという…」松下は遠い目をした。

―――私と竹嶋君はお互いを本名ではなく「政」と「哲」というふうに呼び合っていました。政治経済学科の頭文字をとって「政」の私と、哲学科の「哲」こと竹嶋君です。私は気が弱くて消極的、竹嶋くんは、道理にかなっていないことは許せない、正義感が強くなんでもはっきりものをいう。私はそんな彼が羨ましかった。大学というところは…ようやく難しい年ごろを脱して、世の中のほんとうの姿を知る、いわゆる現実世界を見る端境期にあたります。我々は、サークルなどの諸活動、勉学、あるいは人との交流を通じて自分の将来の夢を語りました。私は政治家になるために、彼は新聞記者になるために。大波に浮かぶ小舟のように、その時はまだ自己というものが揺れていて、実社会というものを知らない。理想と現実の姿というものがどれほどかけ離れていて、厳しいものかを。しかし、理想郷を目指して私たちは日々いろいろなことを吸収し、選択し、ほんとうのユートピアというものを探すのです。が、就職活動が本格化していくにつれ、理想は胸の奥にしまい込まれてしまいます。世の中の姿は私たちが夢みていたものとは違う、いわば孤独な儚い、夢がしまわれた世界です。もし私たちのだれかが、それは違う、と声をあげたとして、いったい何になるのでしょう。世の中がまあまあ順調に動いていれば、それでいいんです。社会の洗礼は、私たちが持つ理想郷を叩き壊すことから始まります。しかし―――現実だけを見てきた者たちはエゴイスティックで貪欲です。どんな手を使っても勝者になりたがる。
松下は笑里がエゴイスティックな誰かによって、飲料に薬物を混入させられた可能性があると遠まわしに伝えた。
「……今、私はその洗礼を受けている、ということなんですね」
「……ええ、残念ながらあなたは今、事件の渦中にいます。警察は捜査を始めています」