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regret4

「事件の渦中に…」

そうと聞いて笑理は悔やまずにはいられなかった。身から出た錆とはいえ、地方から出てきて右も左もわからない東京で、学生の身分でありながら他より早く世間に足を踏み入れたがために、本来買うことのない恨みを買い、自分の命を危めるようなことになった。

信じられないことが次々と起こる今の状況は、なにか悪い夢でも見ているような気さえしてくる。どうかすると「自分はこれからどうなってしまうのだろう」という不安な気持ちは波のように押し寄せる。

「落ち着いてください。あなたの身の安全は守られています。この病院内のセキュリティは群を抜いており、蟻一匹すら入ることはできませんから」

松下のいうように、
たしかに身の安全は図られるかも知れないが、なにもかもが疑心暗鬼になっている笑里には、とりあえずは心の安全が欲しい。しかしそんなセンチメンタルな気持ちなど、なにになろう。彼は護衛に関することを矢継ぎ早に伝える。

「万が一、誰かがこの病室に侵入し、即座に身の危険を感じたら、このインターフェースにあなたの目線を合わせてください。そう。そのように視線を合わせるだけです。これは院内の女性SPに繋がっています。ただちに救援にやって来るでしょう。また、この事件は警視庁捜査第1課の敏腕刑事たちが捜査をしてくれています。おおよそ事件の解決は早いでしょう」

「ありがとうございます。でもなぜ、そこまでして……」

「それは、私の親友である竹嶋君の娘さんであり、優実の大事な友人だからです。これ以上あなたに危害が加わらないように協力は惜しみませんよ」

―――それから今は任意聴収の段階ですが、と松下はいい、

「まだ正式に犯人と断定はできていませんが、指紋採取などの状況証拠が確定したら傷害罪または殺人未遂で逮捕状が出ることになっている女性がいます」

彼はすでに目星をつけているようないいかたをした。

「……犯人らしき人は女性、なのですか?」

「ええ。あなたはたぶんご存じの方でしょう。それについては、またご連絡を差し上げます。それでは……」松下は秘書からの電話を慌ただしく取ると、帰っていった。

私はいつ、どこで、その犯人らしき彼女に殺人をおかさせるほど深い恨みを与えたのだろうか。深い闇がもやのようにあたりを覆った。混沌とした思いを抱えたまま、笑里は眠剤を処方され、眠りについた。

来栖アパートには早朝から刑事たちが訪れる。アパートの住人たちは笑里の住んでいた101号室の様子を見守る。今朝は彼女が演劇につかう小道具だろう、数箱ほど押収された。ブルーシートにはうっすらと一面粉雪が覆っている。

「新聞のテレビ欄の「ナントカ殺人事件」の出演者三行目が犯人だってわかっているのに、ついつい見てしまう心理ってわかります?」ヤマカンこと、トラックドライバーの山下寛太が遠巻きに見守っている住人たちに声をかけた。この場にそぐわない冗談をいって、皆の不安を紛らわせる。

「三行目は、綺麗な女優さんがほとんどですよね。だから、つい見ちゃう」警備員の新田がいう。

「んじゃ、笑里ちゃんじゃないことは確かですね~」荷役作業員の水谷は笑った。が、誰も笑っていない。

重苦しい空気をけ破るように「ったく、くだんねぇこといってないで早く仕事いけ!」元板前の岡は住人に発破をかけた。

「犯罪に巻き込まれた笑里ちゃんを、わしらでなんとかして暖かく迎えてやることが要じゃ」長老の櫛田は岡にいった。

―――本村一露子陣営は、公職選挙法違反の罪で別件捜査が入っている。しかし本村氏自身が竹嶋笑里のペットボトルの飲み物に毒物を混入したとしたとされる可能性は低い。それは、ペットボトルに残された指紋は笑里自身のもので、かつ、本村一露子がその場で毒物を混入することは不可能である。竹嶋笑里を殺そうとした犯人は他におり、いつも彼女の傍にいて非常に近しい間柄ではないかとの推測だ。これはまだどこにも発表されていないスクープだった。

この事件の矛盾点を指摘したのは最初に笑里が救急搬送された総合病院の医師である。胃洗浄を行ううちに検出された毒物の成分が致死量にもかかわらず、彼女が軽傷で済んだことに疑問をもった。この毒物は水にはよく溶けるが、暖かい飲料には溶けづらい。ペットボトルの中身は温かい茶であった。犯人は毒物に関して単純に無知な者か、確実に笑里を殺傷できるのに何かの理由で躊躇したかなどが指摘されたのだった。殺人未遂というよりは、威嚇、というほうが合理的だと。この点について、警視庁捜査第1課の刑事たちも「ためらい」の殺人あるいは「脅し」殺人として認め、捜査は振り出しとなった。

「犯人は本村一露子ではないだと!!」声を荒げたのは、松下久文代議士だ。

「なんの根拠があって、そのような結論になるのだ!」

その報は、ニュース速報としてテレビで流された。竹嶋徹はさいはての地でニュースを聞いていた。「実業家の本村一露子は女子大生殺害未遂には不関与」との報道である。この原野に沈みゆく夕日のように松下の名声もなにもかもが奈落の底に沈んでゆくのだろう、と徹は思った。

なぜ、
愛する娘なのに、あえて不条理な境涯から救うことをせず、突き放すような真似をするのか?

なぜ、笑里の命を犠牲にしてまでも松下の悪事を暴こうとすることをするのか?

なぜ、松下を追い込むため、家族も仕事も一切を捨てて闘おうとするのか?

当然、松下自身もおのれの名声名誉のために、愛娘が犯罪者になるのにもかかわらず笑里の殺害に関与させ実行をさせた。

不合理な結末はもうそこまで迫っていた。

なるほど、これは、自分の家族を路頭に迷わせてまで、娘を危険に晒してまでも、松下久文代議士の悪事を自覚させ、改心させるための低級な芝居ともいえる。そんな彼が書いたお粗末な脚本に笑里は加わっていたのだ。執拗に松下を追い詰めるためだけの低俗なお芝居に。「お前は『リア王』の娘、コーディリアになるように」と生まれてからずっと命じられており、宿命には逆らえなかったのだ。

自らが営んでいた会社を故意につぶし遁走。妻は気がふれたように見せかけ措置入院。そして娘たちは祖母の家へ。竹嶋家が一家離散となったことで世間からは忘れ去られてゆくというシナリオである。

すでに病院内はあわただしくなっていた。笑里の退院が告げられると同時に、東京地検特捜本部が松下代議士の家宅捜査を開始した、との報が届いた。

今からさかのぼること数年前、大手新聞社に勤める徹の同僚だった記者の依田は、とある人物から情報を受けて秘密裡に聞き込みをしていた。その内容は、松下が大手建設会社から駅前再開発に伴い便宜を計ってもらう見返りとして、組織票の獲得での公職選挙法違反と金銭の授受での贈収賄罪の両方を受けたとして裏どりしたことが発端である。

「いいか、スクープってものはいかに記者自身が金を使えるかだ。だいたいお前はけち臭い。情報収集には何よりも金をどれだけ使えるかだ。万金に値する記事は、その名の通り自由に動く金が必要なのさ。俺をみろ。いつも借金で首が回らん。しかし、すっぱ抜きが記事になったときの快感カタルシスはこたえられないぜ」そう依田は豪語していた。しかし、金で人間の心が動くのなら、それはまともな記事とはいえないだろう、と徹は考えていた。

徹が哲学という学問で知った「現存在=人間」という存在論は、そののちの新聞記者という職によって帰結させた徹だった。人間というものはもともと罪を犯す存在であり、闇に向かって歩く存在である。しかし、自らを犠牲にしても他人のために生きようとする者もいる。だからこそ、その人間の真実というものがありありと記事には書き記されなければならない。

―――依田のように陋劣な手段で記事を書きたくない。スクープというものは、金で買えるものではないのだ。俺は依田とは違う。

その後の徹の不可解きわまる行動に皆は首をかしげた。記者を突如辞し、自社の会社を興したかと思うとつぶし、家族も捨てた。あろうことか娘には毒杯をあおらせた。

一大スクープは、新聞社に竹嶋徹の名で届けられた。代議士松下久文の罪状は、××駅再開発にともなう贈収賄罪および実娘、優実への殺害教唆における女子大生殺害未遂事件である。

この狂人はあろうことか、自分と同じ偏狭なナルシシズムを持つものの人生を潰そうとしている。人間の生きざまを記事に書くことが目的ではなかったのか―――

5月。
耐震化工事が完了した来栖アパートだったが、それを見届けたように長老の櫛田が天寿をまっとうした。来栖墓地に遺骨は収められた。住人たちは空き部屋となった101号室に再び笑里が戻ってくることを信じ、入居希望が数名訪れたが、その都度断っていた。

笑里は瀬戸内ののどかな海岸線をローカル列車に揺られていた。窓から入る風はすでに潮の満ちた匂いがし、潮干狩りを終えた家族連れで車内は賑やかである。無人駅で降り、傾斜のある細道を登ると「世の光病院」がある。ギリシャ建築を模した白を基調としたファサードが眩しい。入って中央には噴水が芝を濡らし、回廊の間からは海が見える。ひと昔前は転地療養所として使われていたが、今は精神に疾患のある者を受け入れている。笑里の母はあきらかな詐病であるが、そのふりをしてひとり閉鎖病棟にいた。

天窓のステンドグラス越しに入る光は、時を感じさせ季節の巡りを知らせる。暖かな風と鳥のさえずりが、開け放たれた方々のすべり出し窓から入ってくる。院内の大広間には刺繍が並べかけられていた。淡い色彩で線が細く、緻密で微細な細工が施された作品が多い。蒼いレモンの木が島を覆いつくすものや、汐風にゆれる松の木だったり、青い空にたなびく雲の風景を施す作品などがありそのほとんどが自然を題材にしていた。

ここ、世の光病院はおもに偏狭を持ち合わせている患者が大部分であり、全員が女性である。自由度はあり、読書に興じている者もいれば、絵を描く者、音楽室で楽器を演奏する者など趣味を楽しむ者が多い。母、加奈子を担当している尼僧シスターが微笑みながら笑里に会釈をした。

閉鎖病棟は一般病棟から数十メートル歩いた、小庭園が見渡せる場所にあった。個室となってはいるが、自由にふるまえる時間も少なく部屋は思い出の物すらない。見舞いの客もほとんどなく、時折独り言のような福音の書の一部が聞こえてくる。笑里は彼女の後をついて呼吸を整えながら歩いた。何を喋ればいいのだろう、そんなことばかりが頭の中をめぐり思案に暮れる。

「加奈子さん、娘さんが来られましたよ」尼僧シスターが中にいる笑里の母、竹嶋加奈子に声をかけた。

「誰?」

母は厳しい声でぴしゃりといい、見舞いの者を警戒をしていることを示した。尼僧シスターの前では偏狭質のふりをして、誰もそばに寄せつけないそぶりをする。

尼僧シスターは笑里の手を取らせ「あなたの娘さんよ。抱きしめてあげて」と促すと少し表情は和らいだ。加奈子は「…あぁ、幼いころの娘の匂いがする」と笑里の髪をなでながらいうのだった。その態度に安心した尼僧シスターは部屋をでていった。鍵はかけられなかった。

「……私が何をしにここに来たのかわかるでしょう」笑里は開口一番いった。

「ええ、もちろんよ」視線を真っ直ぐに向ける様は、尋問を受ける際の魔女だ。表情ひとつ変えることはない。たぶん勾留されている本村一露子も、このような態度で取り調べを受けていることだろう。

「お父さんはどこ!」

「そんなこと、知ってどうするつもり?」

「理由が知りたいの。なぜ親友とその家族を破滅させたのかを」

「笑里。あなたの上にはいつも太陽があって、四季が訪れ、人生は穏やかにすぎていくと思っているの?」

「何がいいたいの?」

「お父さんは元新聞記者として犯罪事実を明るみにしたまでよ」

「じゃあ欺きは?お母さんは病をよそおい、ここの尼僧シスターを欺いている。目的のためには手段を選ばないなんて、それは道理にかなっていることなの?」

「笑里。深淵をのぞいてごらんなさい。「人間の行きつく最後」を。私たちがこの世に生まれたのは、なにも善ばかりを目指して生きることを目的に生まれたんじゃないわ。あなたの生きがいのお芝居と同じよ。私も演技をしているのが好きなの。度が過ぎているけれど」

すべり出し窓から見た景色は、野バラや三色スミレや野草や木々、はうもの、飛ぶもの、鳴くものなど、そこにはあまり人の手を加えられていない自然があるがままに在る。柔らかい匂いやあざやかな色や形は感覚を通して風とともに運ばれてくる。

「私のように、こうして洞窟の中で暮らしていては、外の世界を知ることはできない。あなたの求めているものは、外にある。だからそろそろ、お父さんや私という「洞窟」を出て、自分の世界を見つけて頂戴」

母、加奈子は尼僧シスターが来るとすぐに、突然顔色を変えてふたたび押し黙ってしまった。

フェリーは定刻通りに港を出た。階段を上り船尾のきわの椅子へと腰かけた。母は自分に何の未練も残さなかった。遠くで魚が跳ねている。船はまっすぐ白い線を引きながら洋々、島へと近づいていく。

―――進め進め、どんどん進め、いざいざ進め

軍歌のような船内の音楽が流れたと思うと、母のいる病院の地はだんだん遠く霞んでいった。

笑里のふたりの妹みやこ桜久良さくらが住む島は、今日も機嫌が良いと見えて、快晴だった。おのおの高松で買い物を楽しんだ乗客たちは、百貨店の紙袋を下げて足早に下船した。下船客の最後になった笑里は、船員に誘導されて一歩、離島としては最大の人口を誇る島に足を踏み入れた。

祖母の家は港から数キロほど先の丘の上にある。勾配のある地形は山肌に沿って、修験僧が悟りをひらくための密教寺が多く存在する。時折、遍路の姿をした参拝者とすれ違う。「同行二人」と書かれた白装束と錫杖の音は、深い山木立を縫うようにこだまする。妹たちはこのような環境の中で、祖母に引き取られひっそりと暮らしていた。

今にも崩れそうな武家屋敷ふうの門の下をくぐると、母親の旧姓「たいら」と書かれた表札が苔むした壁に筆太で記されていた。呼び鈴を押すと、少しして犬の吠え声が聞こえた。ハチだ。笑里たちが子犬のころから飼っていた柴犬で、二人の妹とともにこの家へ逃れてきたのだった。

「……ご無沙汰してます」笑里は祖母と数年ぶりの挨拶を交わした。

「堅っ苦しい挨拶はええから、はよ、中へ入り。お母さんは元気にしよった?」この暗い外観からは想像がつかないほど、明るく屈託なく話す祖母は辰子といい、その名の通り気が強く、何があっても動じることのない男勝りの女だ。笑里の妹たちは高松に遊びに行っているらしく、船の最終便で帰ってくるとのことだった。笑里は仏壇へ行き参るとのち、茶の匂いが風にのって運ばれてきた。

「コーヒーのほうがよかったかえ?若い人は…」そういうと、祖母は再度、古い茶箪笥に手を掛けた。茶箪笥の上には笑里の父と母、そして3人の孫の写真が飾られていた。

「お茶でええわよ。あ、これお土産。××屋の羊羹」

「おおきに。ありがとう。これまた上品な。どやって開けるん?」一口ひとくちが個包装された羊羹は、リウマチを患う辰子には苦戦とみえて笑里がその都度あけてあげる。

「おまん、すっかり有名人になったげな。あれだけ大人しかった笑里からは想像がつかん。ご活躍でなにより」

「ばあちゃん。東京ってところは、すごいところだよ。男おんな構わずばりばり仕事するし、そのぶんお金もたくさんもらえる。逆に、そうじゃないひとも多くて……時々、よくわからなくなる時がある」

「たとえば……?」

「なんていうのか、本当のことがいえなかったり言わないほうがいいというか、隠し事が多いというか…」

「隠し事がない人間のほうがいいと思うか?」

「よく…わからん」

「なあ、笑里。自分かて何か隠しごとのひとつやふたつあるやろ?でもそれを心底悪いとは思うてないやろ。それと同じよ。なんでもかんでも言えばいいってもんではない」

都会育ちの祖母がこの土地に来たとき、影響をうけたのは修験道に始まる密教という宗教の存在だった。岩場におのれの体を晒して、悟りを開くまで気が遠のくまで歩くという若者の姿に。また、その悟りを体現する行者の歩いたおなじ道を歩いて旅をする者に。自然の中では隠すものはない。ただただ弱い自分を晒すのみ。ありのままの姿を。

「自分は隠したい思っていても、いずれは見えてしまうんよ。これ、おまんのお父さんが書いた記事」

辰子はシリーズ化された記事が掲載された新聞を笑里に手渡した。