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ある日常⑨

出生時に割り当てられた「性別」という概念が、この世界を二分させた。
アダムとイブという「男」または「女」にあらわされたこれが唯世界という概念。その「国境」を超えることは争いを格率させた。

文明は社会が発展すればするほど、生きることが不自由になってくる。
淘汰である。私(のようなもの)が、自己を保つためには欺瞞することしかない。こころの深い部分でしか、いわゆる闇の部分でしか存在することのできない自分という存在。

「男」として生まれた私が、やがて自身がそうでないことに気づきながらも内面を露呈することは、他者が許さない。この世に生まれて20年もの間、両親は私を「男」として(それらしく)育ててくれたし、期待に副うように、感謝という孝行をもって、従い、律することをしてきた。

その間、
光というものを一度たりとも見ることはできず、闇と薄日のあいだをウスバカゲロウのようにふらふら飛び回ってきた。宿り木はなく、あるのは棘のみ。マイノリティであるがゆえの現実である。「男」と「女」、「健常」と「障がい」との差異。

炭素で形成されているダイアモンドであることとは違い、私たちはさまざまな結晶作用を持つ鉱物なのだ。たとえば光の加減で二重にも見えたり、色見も反射により違ってくる。仮にその概念が特定の人間にも当てはあるのでるとすれば、あるがままではない特異な存在であると見なされる。

かつてないインフレーション。破壊と崩壊はなにをもたらすのだろう。恒久的で、価値観の変化変容が難しい、お互いの主義主張がはびこる中で、破壊と崩壊のみでこころを保つことができるのだろうか?

私はゼンチゼンノウの神を通して、ひとつの帰結を見た。マイノリティが生きるための方法論には限界があり、信心を訴えかけての反証は私にはできない。であれば。たぁ君のように深淵を覗き込みながら、模索し、新たな価値を探ることのほうが、理にかなっているのではないか。

次元上昇の旅が終わろうとしている。たぁ君と私のある日常が始まろうとしている。