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あらすじ―――キルケゴールの三段階弁証法というものを参考にして、実存哲学を理解しやすいように書いています。「審美的段階(自分のことのみ考える)」「論理的段階(他人を含めて考える)」「宗教的段階(神=真理に照らし合わせて考える)」と弁証的にすすむ認識は、笑里という主人公が、父という他者との関係性で真理を理解することが目的の短編小説となっています―――あらすじ終わり。

「南向きじゃないんですか?」
方角、それは竹嶋笑里(えみり)には切実なことだった。

不動産屋は間取り図をくるくる回して明かりがともる部屋中を相対させた。
「…ここはたしか南西向き、いや西向きだったかなァ。いやいやこの薄暗い様子だと北西向き、いや北向きかも知れませんねェ…」鼻が頬にうもれている小太りの男は風水師のような面持ちで裏鬼門に浮かぶ月影をちらと見た。

ここのアパートは上から見ればクロス十字の形をしており、当たり前だが南、東、西、北と部屋がうまっていく。学生の自分としては日当たりは関係ないといえばそうなのだが、日中、電気をつけなければならないような部屋だけは避けたいと、事前にいったはずだ。(ひと月半のネカフェぐらしで鬱になりそうなのが理由でもある)

ここ数年のうちに三度も引っ越しをしたのでいよいよ貯金も目ぼしくなってきた。生活のことを考えると光熱費用だけでも浮かせたい、と笑里は足もとを見られてもいいような発言をした。

不動産屋は携帯でしぶしぶ大家に連絡を取り、この部屋の方角がどの向きにあたるのかを聞いた。「ええ、はい、そうなんです。101号室です。ええ、そうです。わかりました。ではまた明日にでも。ではよろしくお願いします」

背の高い笑里は何度も鴨井に頭をぶつけながら方角を確認するように部屋中を見歩く。垣根の奥の風のない感じからすると、北向きかもしれないし、窓に桜の花びらが張り付いているのを見ると南向きかも知れない、とあれこれ想像しながら、花冷えのする夜、窓がひとつの6畳間を歩くのはなんとも心細い。

「日が暮れてしばらくたちますから、また明日にでも来てみてくださいませんかねェ。大家さんが直接説明にお伺いしたいと」不動産屋の持つコンビニの袋には弁当が入っているらしく匂いが部屋に充満した。笑里はマスクをしても漂う黴と油のにおいに辟易し、すぐさま「わかりました」と了解した。

―――賃料・共益費込み三万円。ユニットだが風呂とトイレは部屋の中にちんまりしてある…

ここは東京だ。故郷からの仕送りなしで奨学金とバイトで生計を立てている自分にとっては、この部屋は奇跡に近い存在ではないか。方角がどうのといっている場合ではない。ひとつき半にもなるネカフェ暮らしを終わりにしたい。足をのばして眠れることを考えたら、たぶん、この部屋に決めるだろう。いや、決めなければならない。

ずり落ちた眼鏡を掛けなおすと、笑里はそう心に決めた。

酔っぱらった客のあいだを縫うようにしてたどり着いたドヤ街の端にあるネカフェ。深夜にもかかわらず、隣の住人は起きているようで夜が更けるまで機械音が鳴りやまなかった。携帯と連動させているのだろうか。バイブ音が寝不足の頭にはキツイ。鴨井にぶつけた頭を冷やしながら、これからのことを考えるとなかなか寝付けなかった。上京して後悔したことは二度や三度目ではない。

笑里のかよう大学の学生は裕福な帰国子女が多い。高級ブランド品に身を固めた18歳そこそこの彼女たちは、親が看過しない超過激なブラックジョークをとばしていたし、ゲイのマイク(下がマイクのように長いと噂の)やブット(尻の扱いが軽妙)がやたら身をくねくねさせて途方もない早口で卑猥なことをしゃべりまくっている。教官の梅木が「youー gotー killed…」とつぶやいたのを笑里は聞き漏らさなかった。これが日本でも東大につぐ学業の優秀な大学の現状なのだ。三浪しても入りたかった大学がこれだとは。笑理は入学して早や後悔をしている。

4月×日
今日からキャバクラのバイトだ。演劇研究会の新歓コンパと重なったが初出勤だから、休むわけにはいかない。4限後ネカフェに戻り、一張羅のミニのスカートスーツを着てパンプスを履いて美容院へ向かう。カリスマ美容師らしき男が「お仕事はなにをされていらっしゃるんですか?」と聞いてきた。さすがに学生兼キャバクラ嬢ですとはいえず、適当にアパレル関係ですと答えておいた。7800円也。その後銀座線に乗った。黴くさい車内には、自分のような闇がつまったような女たちが等間隔で座っている。目の前のガラス窓には案山子のような生気のない自分の姿。胸は扁平、丸見がないごつごつとした体のライン。膝上15センチのミニスカートからのぞく枯れ枝のような太ももは、客らの情欲を掻きたてるどころか一気に失せさせるだろうと想像した。女性本来の柔らかさ、しなやかさという姿かたちはそこにはなく、これではクビは時間の問題だ。相手をのせておだてて、上機嫌にさせなければ。演技をしよう。本心を隠した見せかけの芝居を!

デイパックから演劇研究会でつかう小道具をふたつみっつ出してみた。営業1時間前にはキャバクラ『マタタビ』の店の裏口にたどり着き、ディオールをまとった全身がゴールドの店長、野伊朝子の前に笑里は挨拶に行った。

「よろしくお願いします!」

野伊朝子は、30代後半で肉付きが良く、気の強そうな顔に真っ赤なルージュを塗った口角はサバンナで獲物を食したあとの獣にも見えた。腕組をして笑里を上から下まで査定するように見た。

「なあに?その化粧と髪型。ダメダメ。帰って出直して頂戴」と笑里を見るなり一蹴した。

「わかっていると思うけど、ここに来る客は一流企業の社長や芸能人が殆どなの。そのお釜を被ったようなウエーブなしの髪。カラーもしていないじゃないの。それにあんたのその化粧。ほぼスッピン。家のかーちゃんのお酌のほうが良いわ帰るわってなるわよ。あはははは」
野伊朝子はけたたましく笑った。

「そういわれると思いました。少々おまちくださいませ!」
笑里はすぐさまタントミールの姿に自分を変え、再び店長の前に登場した。そこには全身がスパッツで妖艶な猫の姿があった。胸と尻にはパッドを何枚も重ねていた。

野伊朝子はキツネにつままれたような顔をして、笑里を見た。

「お店が『マタタビ』という名前なので、こんな格好も受けるんじゃないかなって♪」

「あんた、さっきとおんなじ娘?」

笑里は必死になりながら、朝子にへつらう。

「ま、そこまでやるんなら、あんたを社長に引き合わせてあげてもいいわ」朝子はいちいち恩をきせるようないいかたをした。どうやら『マタタビ』のキャバ嬢の第一面接はクリアしたようだ。

朝子は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた札が下がったビルの裏口の引き戸を開けた。「土足厳禁」と書かれた紙が壁に貼られている。ヒールを持ち、廊下の突き当りの従業員控室に進む。

キャバクラ『マタタビ』の営業が始まるのは20時。当然のことながら控室は誰ひとりおらず閑散としていた。窓のない8畳ほどの部屋が二部屋。壁いっぱいに掛けられたキャバ嬢たちのドレスは、支払いの済んでいない代償として持ち帰りは許されず、ローンが終わるまでここに預けられている。ベビーパウダーのような甘っくるしい匂いと、丸テーブルの上の丼の残り汁の臭いが現実を感じさせた。

朝子は笑里をスツールに座るよううながす。笑里は面接にのぞむ新卒の書くような履歴書をバッグから取り出して緊張の面持ちで待っていた。

30分ほどして社長と思われる40代なかばの細面の女がパンタロン・スーツに身をつつんで入ってきた。笑里と同じくらいの背丈がある。身のこなしが優雅で品性が感じられる。つば広のストローハットの奥でささやくように話す。社長は本村一露子(ひろこ)といった。

笑里は本村社長に丁重に挨拶をした。履歴書を社長に渡そうとした。が、社長は「結構よ」と辞退した。

「笑里さんっていったわね。まったくの素人のあなたにはわからない世界ですけれど……」と一露子は前置きをした。

「この界隈には、私たちのことを業界の『軽業師』なんて揶揄するような人間がいます。お客様に色目を使って、ある程度媚びを売ればお金になる、と間違った思想をお持ちの方たちが。でも、本当にそれだけでお客様がこのお店にいらっしゃると思うかしら?銀座界隈でナンバーワン・ナンバーツー・ナンバースリーと言われるお嬢さん方は、人間の深層心理ともいえる深い知識・経験・ノウハウ・見識を持っていらっしゃる。さて、これらのことを踏まえて、お客様たちが私たちに求めているものって何だと思われる?」
笑里はことばに詰まった。一露子の二次面接は、自分の浅はかさを露呈させうるものであった。街の喧騒が戻ってくる時間になった。
 
「こんな簡単な答えに窮するようでは、残念だけど……」と一露子が席を立とうとしたときだった。笑理が訴えた。

「……私は子どもの頃から地方の舞台に立っていました。あるとき著名な演出家のワークショップがあり、そこで本当の演劇というものを知りました。「東京へ」という思いはなんとか叶いました。でも現実は厳しくて…今の私は住む場所はおろか、生活費も底をついてしまって……三浪して入った大学なのに、学費が払えていないので、明日にでも除籍になるかも知れません。……」笑里は二人の前で恥を忍んで切々と訴えた。

「それでは全然答えになっていませんわね」

「お客様が私たちに求めているもの…それはリアリティな日常から、幻想的な非日常へと変化することが出来るこのキャバクラ『マタタビ』でのひとときです。私ならそんな時間を提供できる自信があります」

一露子は身に着けていた腕時計を外して、テーブルの上に置いた。

「あなた、この時計がおいくらかお分かりかしら?自慢しているわけではなくて、あなたの価値判断が知りたいだけよ」

ダイヤモンドが数百もちりばめられている時計を見た野伊朝子は、ゴクリと唾を呑んだ。東京のすすけた夕日にも麗しく時を刻んでいる。

「……申し訳ございません。よくわかりません」

「経営者や実業家であればなおのこと、この時計は最低でも一億円と分かる。あなたは『お金』に対して悪いイメージを抱いていらっしゃるから、この時計の値段が分からない。でもその『お金』こそが、今のあなたの人生を悩ませているものではなくて?そんな方に接客をされたいなどど思う殿方など、いらっしゃるかしら…?」

「悪く思わないで頂戴ね。あくまで最終決定権は社長だから」
笑理はけんもほろろに帰された。

再び来た道を戻ると、都内では逆パワースポットで有名な通称『悲しが丘』といわれる場所に出た。怨恨の残る人間の名前を書いた焼物を思い切り割り砕いたものが、丘を形づくっている。SNSにあげられるたびに評判となり観光客ふくめ全国各地からの巡礼者、観光客が絶えない。

携帯カメラのフラッシュの閃光だろうか。蛍のようにあちこちに飛交ってる。ピースサインで笑顔の女性やカップルが多い。『悲しが丘』というより、それを取り囲んで喜ぶ客たちが多い。悲しく暗い感じはまったくしない。笑里も「悲しが丘」をバックに、タントミールの姿でSNSにあげてみた。すぐにイイねがついた。

笑里がネカフェに戻ったのは夜の10時を過ぎていた。携帯には着信が残されていた。大学の事務部と不動産屋からだ。どれもこれも待ったなしの金銭的案件だ。

―――あなたは『お金』に対して悪いイメージを持っていらっしゃる。

笑里は一露子の言葉を再び思い出していた。
ふるさとの両親の顔が浮かぶ。会社経営に失敗して破産した父は蒸発したまま行方知れずだ。債権者のために自宅を競売したと銀行から連絡をもらった母は病に倒れた。小学生と中学生の妹二人は親戚の家に預けられている。そんな実家の状況に回りからは「なぜ働かない?」と説教を受けた。父と同じように逃亡したと思われても仕方がない。

―――お金さえあれば……

来栖アパートオーナーの蓮杖(れんじょう)は、
笑里が内見した101号室について不動産屋の木下と連絡をとった。

「方角?北向きだけど適当にこたえておK!」

「いいんすかね。後からクレーム入っても」

「賠償案件になったって弁護士費用を考えたら相手も訴訟は避けるだろ。今時風呂トイレ付3万円台で東京23区で住める場所なんてないぜ」

「それじゃ、適当に答えときます」

「ちなみに、なんて答えるんだ?」

「北向きじゃ断られるんで、北東向きっていっときます」

「ほとんど同じじゃねーか。まあいい。それで」

「それから、あそこの部屋は…いいんすかね、このまま話をすすめて…」

「お前にまかせる」

蓮杖は面倒くさそうに話を切り上げ電話を切った。

名称:来栖(クルス)アパート
所在地:東京都××区××町××番地 S駅徒歩3分
築年数:50年(1974年築)
総戸数:50
構造:木造2階建
備考:耐震化・大規模修繕は行われていない。耐震度は危険度Aランク相当。住宅扶助専用で賃料の未納はないので安定した経営状況である。
『101号室』のみ「××の事情」で数年ほど空室。

木下が勤めるNB不動産の情報ファイルにはそんな文字が躍る。

「勧める方も気が引けるよなぁ……」

竹嶋笑里はNB不動産にいた。
雑居ビルのテナントの地下にあるためインターネットの地図には載っておらず、事務員の電話の誘導のみで、客が来訪する。水をしばらく替えていないらしくしおれた花が一輪挿しに刺さっていた。カウンターには先客の飲み残しの茶わんが残されていた。

「やっぱり北東向き、だった…」

笑里の落胆した表情を見逃さなかった木下はすぐさまセールストークをはじめた。

「通常、ほかの部屋は5万円!今なら101号室だけ3万円!その差なんと2万円ですよー」

「でも、いくら方角が北東向きだからといって、101号室だけ3万円って…ほかに何か安い理由があるんでしょう?」

想定の範囲内の笑里の問いに焦りながらも、木下は説明を始めた。

「これは周辺地図なんですが……ほかの部屋よりもお安い理由はこれです。来栖アパートの北側敷地内は、『無縁墓地』があってですね。101号室のご入居様はそこの管理人として業務を担うかわりに賃料がお安くなっているんです」

「ムエンボチ?それはいったいなんですか?」

「親族がいなくなったお墓のことです。納骨堂の管理や、毎年のお盆やお彼岸には住職様を呼んでお経をあげたり…まあ、そんなに手間はかかりませんよ。何かあれば私共も手伝います」

「そんな仕事は無理です。私学生ですし。すみません…」
笑里が席を立とうとした時だった。

「失礼します。良ければもう少しお話をさせて頂けませんか。はじめまして。僕は来栖アパートの大家をしている、蓮杖といいます」落ち着いた物腰で、笑里に椅子に座るように促す。

「なにも、あなたに報酬なしに無縁墓地の管理人になってもらうつもりはございません。敷金・礼金・管理費なし、賃料3万円のみでお願いしているのです。毎年の法事にはまとまった謝礼もあります」

「ご存じのように、『来栖アパート』は身よりのない生活困窮者の方々が住まわれています。突然体調を崩して他界するかたも少なくありません。そんな方が安心して成仏できる場所といえば、住み慣れたこのアパートに隣接した来栖墓地しかありません。彼らはこの墓地があるからこそ、わざわざこのアパートを選んで来られます。そのお客様のお気持ちを汲んで差し上げられるのは、笑里さん、あなたしかいらっしゃいません」

蓮杖はゆっくりとした語りで、子犬をてなづけるように笑里を説得した。

「……ひと晩、考えさせて頂けませんか」笑里はそういうのがやっとだった。

「もちろん。良いお返事を、お待ちしております」蓮杖は入口の外まで笑里をエスコートし、見送った。

「……十中八九、落ちたな」

「さすが、蓮杖さんだ。いやぁようやくあのおどろおどろしい仕事から解放されると思うとゆっくり眠れますよ。ありがとうございます」

「なにがありがとうございます、だ。少しは女を欺くテクニックでも勉強しろ」

―――生活困窮者のためのアパートの墓地管理人か……

笑里は、
蒸発した父、自殺未遂をした母を思い出していた。世界的な感染症の影響で父親の営んでいた建築会社が倒産したのは2年前だ。経理を担当していた母親は会社の帳簿類を持って海に飛び込んだ。漁船が波間に漂う母親を引き上げてくれたので、一命は取り留めた。今後も命を絶つ恐れがあるからと、医師の進言で数年たった今も、措置入院をさせられている。

自分の代で苦労して築き上げた会社が、たった一夜で破産の事態に陥った。不可抗力であったにもかかわらず、頼みの綱だった銀行に「危機管理の甘さの現れ」といわれ、追加融資はうけられなかった。さまざまな要因が父親を破滅に追いやってしまったのだと笑里は推測する。

無縁墓地の管理人をすることで、両親が命を懸けた「経営」というものが何だったのかを知る手がかりとなるかも知れない、と。そして、一露子に諭された「金銭の価値判断」とは何かが分かるかも知れないと。

笑里は覚悟を決めた。大胆な柄を装ったマネキンが夏の到来を告げている。ショーウインドウをしばらく見たあと、店に入りヴィヴィッドなホルターネックのトップスとショート・パンツを購入し着替えた。足もとはアンクル・ストラップ・サンダル。自転車を乗りこなすのは手間取るが、気分がよい。髪もオレンジブラウンのカラーにした。キャップを被り、大学へと向かった。

笑里の姿は人目を誘った。ランチを食べていると、演劇研究会の部員たちや、クラスメートに声を掛けられる。何かを失うことは何かを得ることなのだ。キャバクラのバイトは得られなかったが、住まいを得た。徒労感があったが、ようやく東京での新生活がスタートしたのだ。