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regret2

6月×日
ほうぼうで紫陽花が咲き始めた。アパートの居住者にはまだだれ一人会えていない。一度挨拶に回ったが居留守を決め込まれているようだ。全室空き部屋のようにしん、としている。生存確認は区役所の仕事なのでそこまですることはない、と大家の蓮杖からはいわれている。

墓地の管理は草刈りに始まり草刈りに終わるというぐらい草が生える。今朝も大学の授業の始まる前に納骨堂の周辺を刈った。昨日抜いた場所からは、もう小さな草が芽を出している。ツバメのヒナも無事に旅立った。巣のあった場所には気持ちのよいぐらいの成長の証が大量に落ちている。もう、あの忙しい鳴き声が聞こえなくなると思うと、少し寂しい。たぶん、この来栖アパートの住人たちもそう感じているだろう。

授業と授業の合間に自分の名刺を作る。今後、通夜や葬儀などの場面に出くわした時、関係先に渡す必要が出て来るからだ。ただ、自分の名前に笑の文字が入っていることが気になる。「場」にそぐわない「笑」の文字。自分の名前で相手の感情を乱したことは、一度や二度ではない。仕方がないので、「えみり」と平仮名にした。

「なにしているの?」松下優実が人懐こい笑顔でのぞきこむ。彼女は政治経済学科と、自分とは専攻が違うがなんとなく気があった。優実の実家は松濤にあり、毎年代議士を輩出している名門松下家のお嬢様だ。

「名刺を作っているのよ」

「…噂で聞いたんだけれど、笑里さん、来栖アパートの管理人をしているって本当?」

「不審者情報『ほっかむりをした全身スパッツの背の高い女が墓地に出没』って大学の掲示板に貼ってあったそうね。ええ、そうよ。それ私。警察署には、身分証明書の提出と聞き取りで取り下げてもらったわ」

講堂には、次々と学生が集まってくるが、皆、笑里を避けるようにしているのがわかる。

「今朝なんて5時に起きて墓地の草刈り。8か所も蚊に刺されて授業に身が入らないくらい。いずれは、『ギリシア神話の神と現代の人狼も恐怖する蚊の襲来について』ってタイトルで卒論を書く予定よ。冗談だけどw」

「代議士の事務所のバイトを紹介したいの。墓地の管理人の仕事より楽だと思うわ。父にお願いすればすぐにでも」

3歳年下の彼女は同級生だが、笑里にとってかわいい妹のような存在だ。清楚なコンサバ系だが、ゆくゆくは海外でも通用するような政治担当の記者を目指しているらしい。

「…私今のバイト気に入っているのよ。代議士の事務所勤務は気を遣うし。せっかくだけど…」

「笑里さんためを思っていわせてもらうわね。今回の不審者情報はえん罪だったけれど、誤解を招くような行動や振る舞いは、やめたほうがいいと思うの。人の口に戸はたてられないわ」

「人の噂は75日。大丈夫、そのうち忘れてられてしまうわよ。生活がかかってるの。それに…」

笑里は、銀座に店を構える一露子の経営哲学に対抗するような、グローバルとは聞こえがいいが、複雑でカオスな現実社会を垣間見始めていた。

「優実ちゃん、ひとつ聞いてもいい?あなたは何のために政治記者になろうとしているの?その分厚い「社会学」のテキストには『文化の多様性について正しい認識を育成し人間的自由の可能性を高める』って書いてあるはずだけど…」

教授が暗幕を下ろし始めた。スライドのタイトルには、『社会の光と影』。光とはいったい誰を指すのだろう。影とはどんな状況をいうのだろう。

いったん言い出したら聞かない笑里。そんな頑固だった父を嫌悪していた自分。今はそんな父の気持ちを少なからず理解していた。

強いアスファルトの照り返しが梅雨明け間近を思わせる。

来栖アパート玄関脇の掲示板には、『ゴミの分別のし方』や『ゴミ収集日』、『共用部(玄関・廊下・洗面トイレ)の3S』などこまごまとした掲示物が張られている。

『猫に餌やり禁止』など〇〇禁止のチラシは最近自治会により張られた。『熱中症にご注意』のチラシは笑里が作成した。住人はクーラーを持たない者が多く、夏は救急車を呼ぶ回数が頻繁になる。今日も携帯アプリの熱中症アラートが響く。笑里はメガホンをもって各棟を回る。

「熱中症に注意してください。水分補給を忘れずに」

今日は
『来週6月×日(日)朝7時から雨どいの清掃作業』のチラシの案内通り、
笑里は休日返上で雨どいの清掃作業に専念する。サーカスの団員のように、梯子に飛び乗ると手際よくブラシを使ってふやけた落ち葉をのけていく。

「暑い中ご苦労様だね~」

うず高く積まれた落葉を遠慮なく蹴散らしてゆくのは、野良猫かとおもいきや、蓮杖である。不自然なほど白く輝く歯は装飾品のようにピカピカ光っている。この秋の区議会議員に立候補するのでまっ先に挨拶に来た、ということをいっている。「ひとが嫌う仕事をするのはまっぴら」と笑里はことあるごとに聞いていたから、どういう風の吹きまわしだろうと思った。

「……笑里さんのご友人の、ええと、松下優実さん」

突然、優実の名前が出たので、笑里の心中は穏やかではなくなった。
汗と泥でくしゃくしゃになった顔をよそに、梯子段を飛び降り蓮杖に詰め寄る。ほうぼうに砂埃が舞い散る。

「優実さんは私の友人です。その友人が何か?」

イアーゴ蓮杖(※シェイクスピア作『オセロー』でオセローとデズデモーナを引き裂いた奸計者。笑里はいつも蓮杖を影でそう呼んでいた)は、チノパンの後ろポケットからハンカチを取り出すと咳き込みながらいった。

優実さんのお父上は××党の有力者なので、ぜひ僕を公認候補として推薦してもらいたいと思っている。そこでなんとか笑里さんのお力をお借り出来ないかと恥を忍んでここにお願いにきた、と殊勝なことをいっている。

「すみませんが、そのお話お断りさせて頂きます」笑里は一刀両断した。

「ふん、そういわれると思っていましたよ」奸計イアーゴは次の秘策を用意してきたと見える。

「僕がもし区議に当選したら、この来栖アパートをサ高住(サービス高齢者専用住宅)に建て替えるつもりです。全室冷暖房、バス・トイレ付。耐震基準はクリアのうえ、防火設備も完備。看護師が常駐し、必要なら介護ヘルパーも呼ぶことができるので、住人が熱中症で担ぎ込まれるなんてことはなくなります。老後快適に住めることを保証します。来栖墓地は檀家寺が管理します。笑里さんは何もせず、更新なし3万円で101号室に住んでもらって構わない。」

イアーゴの公約に笑里は一瞬よろめきかけた。
80歳を筆頭に高齢者がほぼ半数を占める来栖アパートだ。病気がちで仕事を休みがちの者も多い。夜勤をこなしているものもいる。自分だって、墓地の管理だけならまだしも、毎日49室の誰かが非常事態に陥るため、大学のレポート提出も遅れがちになっていた。

しかも公約は破られる可能性は大きい。そして何よりこんな男の虚栄を満たすために優実に迷惑を掛けることはできない。笑里は相手の目をじっと見据えた。

「とりあえず一週間。考えてみてください」そういって蓮杖は意気揚々と帰って行った。

住人の何人かだが会えば挨拶を交わすようになっていたし共用部分の清掃をしていると、洗面所や便所掃除を手伝うものも出てきた。高さのある明り取りの窓ふきや、照明器具の電球の付け替えも各自で行うことが増えた。笑里がありがとうございます、といえば無言だが目で挨拶をしてくれるものや、「いやいや」などと手を振るものがいる。ようやくこのアパートに愛着がわき始めて来た頃だった。

ある日の午後、
来栖アパートの立ち退きに関して住人説明会を開きたい。いついつなら可能かなどと、弁護士の立川という人物が訪れ笑里にいった。今回の区議会議員の選挙では苦戦が予想される、多くの選挙費用が必要になって来るので、この土地を売って選挙資金に充てたいとの算段だった。もちろん立ち退きはそう容易でもないことは重々承知だ、保証金も用意するなどと手前勝手なことを一方的にいって帰っていった。

すでに自分の気持ちだけでは対応できなくなっていた。金と力が働く政治の世界。

早速、
来栖アパート南の敷地内に選挙事務所が建てられることとなった。プレハブ小屋だ。「必勝」の紅白の幕や机、パイプ椅子が届いた。公認も推薦も決まっていないうちから道具を着々と準備するところなどいかにも蓮杖らしい。

区議会議員選挙運動(補欠選挙)でウグイス嬢のうしろにいてお手振りをしている笑里。その車列は、優実の実家に差し掛かる。広大な白亜の御殿には優実の父、松下久文夫妻の姿があった。噂には聞いていたが、東京とは思えないほどあたりは静寂で、住む者の嗜みが感じられる。自然に車内は一瞬水を打ったように静かになる。

八千代公園の前で街頭演説が始まる。
横断幕には「無所属 れんじょう こうじ」の文字。結局××党の推薦が得られないまま選挙戦へと突入、無所属での立候補となった。

案の定、街頭演説会はまばらで、親子連れやカップルはきまり悪そうに通り過ぎる。駆り出された来栖アパートの住人たちは蝋人形のように連なって無言で演説を聞いている。

蓮杖と同じ初出馬ながらすでに当確との呼び声高いのは、××党公認の本村一露子だ。八千代公園の反対側の、御成公園で街頭演説が開かれている。

聞けば、一露子は笑里と同窓であり、演劇研究会のマドンナだった。開学150年祭で行われた『オルレアンの乙女』で主役のジャンヌ・ダルクを演じた一露子。ミスコン荒らしとしても有名で地元では知らぬものがいない程。その美貌見たさに、街頭は先を争うように押しかける者たちでごった返している。

笑里は来栖アパートの住人たちと目を合わせた後、うつむいた。

それにしても、本村一露子とはいったいどんな人物なのか。政治に対して関心があるような素振りは見られなかった。帰国子女であり、支配階級が多く進むイギリスR大学を卒業した。さらに銀座に飲食店を数店持つ経営者である。

街頭演説会では、見る者の目を見張った。
栗色の柔らかな髪、朕美で深い彫像を思わせる凛々しい顔つきはまさジャンヌ・ダルクのよう。

そこでは確たる公約が掲げられていた。保守系となる一露子のマニフェストは所得のいっそうの倍増である。投資家と組んで雇用を活発にし、生産性を増やすことを目的とした対策を都と協力して行っていくことを訴えた。聴衆はやんややんや、警察が出る騒ぎとなった。

いっぽう、来栖アパートは登記簿上で借地であることが発覚、売却できない事態となっていると弁護士から告げられた。権利者はあの本村一露子だという。

蓮杖は売却をあてにすでに金融機関から多額の借金をしており、首が回らない状況である。区議会議員に当選する以外に来栖アパートの未来はない。笑里は一露子を訪ねて銀座へと向かった。

選挙事務所には、一露子との面会を望む客が絶えなかった。下馬評では当選確実との噂。当然、後援会の面々も尊大な態度。「有権者への対応」という選挙では一番大事な活動がおざなりになっていた。そんな中でも笑里は下を向くでもなく遠慮するでもなく、あえて敵陣に乗り込んだ。

「大変申し訳ございませんが、本村先生は、××党の××先生からのご紹介でないとお会いできないと伺っております」

松下家のおひざ元から立候補した蓮杖。その松下代議士からの推薦も得られない状況では、落選は確実だ。待ったなしの笑里、そして来栖アパート。
この選挙で一露子が勝利すれば、来栖アパートはただちに取り壊されてしまうだろう。一縷の望みを掛け、もし一露子が定期借地権の時効を撤廃してくれれば、住人たちはこれからも来栖アパートに住むことができる。

選挙戦終盤。
夕刻、笑里と来栖アパートの住人たちはアパートの今後について協議をした。弁護士から現状が伝えられた。選挙運動と仕事の両立で疲労が極度になった住人たち。怒りや憤りのような声が聞こえるかと思いきや、諦めや中には「しかたねえャな」などと同意するものまでいた。動かすことのできない現実が、彼らを諦めさせていた。

来栖アパート跡地には、タワーマンションが建設される、との噂はすでに住人たちの耳に届いていた。その計画は着々と進んでおり、もはや彼らたちの意向で事が済むような事態ではなくなっていた。弁護士は淡々と今後の都市計画やこの土地の処分についてを伝えた。

「いきなり『トシケイカク』といわれても誰も理解が出来んでサ。もう少しかみ砕いてお話しいただけませんかネェ」アパートの長老、齢81になる櫛田がいった。息子ぐらいの年齢の弁護士はひとくち茶を含むと、その概要について「かみ砕いて」説明した。

「墓の上に、タワーマンションなんか建てられるのかねェ」

「罰当たりめがよう」

反対意見があちこちから飛んだ。収集がつかない事態を予想した笑里は、来栖アパート墓地を運営している檀家寺、『永劫寺』の住職高山良仙に応援を頼み込んだ。

騒動を聞き駆けつけた永劫寺の住職。とりあえずこの墓地は現在の「都市計画」などではどうすることも出来ないものであることや、その根拠としての『墓地、埋葬等に関する法律』を「かみ砕いて」説明した。

来栖アパート墓地の歴史は古く、今でいう「みなし墓地」とされており、区の都市計画の範疇を超えたものとなっている。墓地の所有者はもともとこのアパートの先代の住人たちが名前を連ねていた。ゆえに不動産の売買が勝手に行えるものではなかったのだ。

無知もうまいだろうと住人を丸め込もうとして説明会を開催したはずが、木乃伊取りが木乃伊になることにうろたえる弁護士。ただちに形勢は逆転、住人たちは溜飲を下げる結果。笑里は少しだけ気持ちが楽になった