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僕は少々めんどくさいニンゲンかもしれないけど、あなたを本気で「褒める」ことができると思うんだ、って話

前略

私には鬱の症状があります。

一口に「鬱」といっても種類がたくさんあります。
「ケーキ」にショートケーキ、チーズケーキ、モンブランなど多様な種類があるように、「鬱」の種類も、身体や気持ちに表出してくるものも、本当に人それぞれです。

私の場合は、波が満ちるように自分が苦しくなっていきます。そして気づけば波は引いていき、元気になるタイプです。
いわゆる「躁うつ」と呼ばれる種類になります。

潮が満ちて苦しい「鬱期」と、元気な「健康期」(と呼んでいる)は、何ヶ月という周期はなく、急にやってきて、急に去っていきます。何がきっかけで、どんな状態のときに「鬱期」「健康期」になるか、私自身未だにわかっていません。


話は変わりますが、世の中には「物事の捉え方」において様々な考え方がありますね。

例えば、どんなことも「為せば成る」、「この境遇に何かしらの意味がある」「どんなことにもメリットとデメリットがある」「選んだ選択肢・選ばれた状況を正解にするしかない」などなど。

どの考え方も、物事の切り取る視点は違いますが、最終的に物事に「ポジティブな意味づけをする」という共通点があると思っています。

さて本題に入ります。

「鬱」という特性を持ち合わせた「私」には、一体どんな意味があるのでしょうか。どんなメリットがあるのか。

1つ挙げるとしたら、「人に優しい」かもしれません。
この優しさは、誰かの背景を考えられる優しさです。
たくさん想像できます。どんな思いがあって、何を考えているのか。想像ができます。
そしてたくさん褒めることができます。「生きているだけで偉い」という言葉を本気で思って、本気で伝えます。

昔、先生に「なぜ周りに優しくできるのか」と質問されたことがありますが、いま答えるとするなら「私自身がうまくいかずに、うまくできない自分を見て、気持ちが死にそうになる経験があるから」と言うかもしれません。


私は、「~して偉い、頑張っている」という言葉を後輩に言うことがあります。

こんなエピソードがあります。

ある日、授業にオンデマンドで出席するか、教室に行くか、はたまた休むか迷っている後輩がいました。ギリギリまで悩んだ末、彼女は、教室で授業を受けると言いました。

その時、私が彼女に伝えたことは、「まず1つ決めたことが偉いね、教室に行くって決めたの頑張ったね」です。

何かを意識的に考え決断することは体力がいることです。でも、それは「当たり前」だとされていて、労力をかけていることだけれど、褒められることはあまりないように思います。

私が彼女に言った言葉は、私の心の奥底からの本心だと思いました。同時に私が誰かに言ってほしい言葉なのかもしれないと感じました。「誰か」は他者からでも、自分からでもいい。ただ日々生きていることを、生きる中でエネルギーがかかる行動を、褒めて、頑張ったねと言って過ごしたい、私の願いかもしれないと感じました。

もう1つエピソードがあって。
私の癖を見つけては、「〇〇するの癖ですよね~~」と伝えてくれる後輩がいます。ずっと一緒に仕事をしながら過ごしています。仲がよいです。

そんな彼女は、私を「優しい」といい、さらに「こんなに人の背景を知りたがる人をはじめて見ました」と言います。

彼女がいう「優しい」がどんな優しさなのか、私にはわかりません。

ただ、私は、誰かの表面の言動だけでなく、「何があったのか」「なぜそう思うのか」、考えて思いを寄せることはできることがわかりました。


私は「鬱」があって、他者から見ると、めんどくささレベルが上っちゃうかもしれません。関わりづらさがあるかもしれない。

でも「鬱」な私だから、できなさにぶつかりまくるからこそ、誰よりも人を褒められるし、「呼吸していて偉い」「頑張っている偉い」ということができるのかもしれません。

あなたをたくさん褒める。そして表面の態度だけで受け取りません。
言葉や行動の背景に、あなたなりの正義や正解があって、苦しみや痛みもあって、そんな状況を想像します。事実を伝えてくれたら自分なりにではありますが、受け止めることができます。

だから、もしも、しんどくなって、だれでもいいから「褒めてほしい」ってなったとき、私がいることを伝えたいです。

鬱な私だけど、どんな私が、受け止めます。

そして気が向いたら私の話も聞いてもらえたら嬉しいです。




この文章は、鬱な私へ、鬱な私が、今いる意味を見つけたくて、自分に伝えたくて書きました。

おしまい

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