noteの下書きに溜まったものたち

最近、更新をしていなかった理由。

それは下書き機能のせいである。

そこには途中まで書いてペンを置いたものが、

少しずつ溜まっていく。

それは誰の目にも晒されず、

私だけが知っているものたちだ。

書いていた時間、場所、事柄などは全て異なる。

しかし、今は下書きの一覧の中に留まり続ける。

私がnoteを始めた時に1番大切にしようと考えたのは、

「絶対に無理しない」ということだ。

少しでも無理するとそれは義務になる。

それだけは絶対に嫌なのだ。

ただ心の赴くままに描き、良いと思ったものを出したい。

まあ、これも一種の完璧主義と言われて仕舞えば、お終いなのだが。

書いてはやめ、書いては保存し、

そうやって溜まってきたが、

ふと、これはnoteの下書き機能のせいではないかと私の悪い癖である他責思考が頭を出した。

もし、下書き機能がなかったら。

書いたらそのまま出すことしか出来ないとしたら。

私は未完成のまま出しているだろうか。

それが今の私の頭の中であると納得できるだろうか。

そんなふうに自問自答し、

自分がどれだけデジタルに踊らされているかを実感する。

もし、今スマホを投げ捨ててしまったら、

私は何をするのか。

・本を読む

・絵を描く

・日記をつける。

・なんとなくヨガなどの体操をしてみる。

・編み物、、と言いたいところだが完全に初心者なので動画を見らずにできるのか。

このように実に依存していることがわかる。

スマホやパソコンがなければ、noteすらもできない。

代わりに日記を書くだろうが、

これは完全に日の目を浴びないだろう。

(勿論、例に漏れず三日坊主で終わるだろう)

一日中スマホをいじって終わるなんて、

こんなことやめたいと思う。

しかし、人間はデジタルなしでは生きにくい世の中になってしまった。

それと同時にデジタルがあるからこそ生きにくくなった。

我々はこれを妥協し、受け入れていく事が自然なのか。

それとも醜くとも足掻くべきなのか。

私は自分に呆れているのだ。

今の環境に胡座をかき、過ごしていることに。

私は完全にスマホを第二の「ブレイン」として生きやすさのために利用してる。

自分のキャパシティを無理矢理広げているようにも感じる。

本当にこれは生きやすいのか。

私の完璧主義による過度なキャパシティの増幅によって

本来の自分のキャパシティとのギャップが

自分の首を自ら絞めているのではないか。

先程、私は「無理はしない」と宣っていたが、

そもそも論としてスマホを打ち捨ててしまった方が根本の解決に繋がるのではないか。

我が家には保護猫が3匹いる。

家族としても友人としても良好な関係を築いていると自負しているが、

彼らの生活はまさに自然そのものだ。

朝や昼などの腹時計は備わってこそいるが、

時間にとらわれる事なく、

各々、好きなことをして、生きている。

そこには人間が思う執着や焦り、死への恐怖すらもなく、

ありのままの「生」を享受している。

彼らと共に生活していると人間の浅ましさや、

エゴがより一層際立つ。 

そして、はっとするのだ。

逃れたいのものにしがみついているのは、

自分自身だったことを。

きっと暫くしたら何もかも忘れ去って、

第二の「ブレイン」を使い、また下書きを書き溜めるのだ。

しかし、今はきっとそれでいいのかもしれない。

自分自身のエゴや浅ましさには、

いずれは正面から戦わなければいけないだろうけれども、

今はそこまで“人間”として出来ていないのだ。

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