見出し画像

シンパシーとエンパシーについて

なんだか昨今の社会、ネット上のコミュニケーションを見るにつけ、みんなの中にかつてあったはずの何かが失われつつあるような、うら寒い気分に襲われることがあります。

そんなときはやっぱり本に教えてもらうことが多いもので、2019年の "Yahoo!ニュース本屋大賞ノンフィクション本大賞" 受賞作「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」は、さすが時代を捉えてると言うか。いま大事な事が書いてある気がしますね。

「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」


様々な問題を抱えているイギリスでの学校教育を軸に、そこに通う11才の息子の目線から日常に当たり前に存在する様々な差別・分断を高解像度で描き出す、ブレイディみかこさんの素敵エッセイ。

ちなみに社会環境で言えばイギリスは現在、国内総生産ランキング第7位と低迷(2017年は5位)
https://www.ig.com/jp/trading-strategies/top-10-largest-economies-in-the-world-201020
さらにコロナの影響で市場規模は5分の4の規模まで縮小したと言われます。

階級社会の名残で貧富の差が大きく、社会的流動性は停滞、緊縮財政のため福祉が低所得層に行き渡らないなか、移民の受け入れや強引なEU離脱などで分断が顕在化している今のイギリス。

そんな環境の中、低所得層の外国人(日本人とアイルランド人のハーフ)として底辺中学校に通う11才の男の子。
ある日彼は学校の課題で『エンパシーとは何か』と問われます。

そんな難しいこと聞かれるの!?と親は驚くわけですが。

・シンパシー(sympathy)
「誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」
「ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」
「同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」

・エンパシー(empathy)
「他人の感情や経験などを理解する能力」
「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」

シンパシーは僕らもよく聞く言葉で馴染みがあるし、なんとなればシンパシーを感じることは、なんかいいことだと思っているわけなんですが、エンパシーといわれると、はたと考えてしまう。

僕らはとにかくシンパシーが大好きで、テレビのチャリティ番組でかわいそうな人達が頑張る姿を見て涙を流したり、せっせと募金を集めたりするけど、それはつまりシンパシーを掻き立てられている状態なんですよね。
条件が合えばシンパシーは勝手に湧いてくるし、それはどこか気分のいいもので、どうやら自己肯定感にも繋がっている。

だけどエンパシーとなるととたんに自信がなくなりませんか。
シンパシーが湧いてこない対象、価値観の違う、共感できない相手の立場にたってものを見ることをほとんど拒絶してしまうようなところがあるんじゃないでしょうか。
なんで共感できない相手の立場なんて考えないといけないの?とすら、どっかで思っている。だってあいつらダメな奴らじゃん。と。

日本よりずっと多様性に課題を持っているイギリスではこのエンパシーの教育に力を入れていて、演劇を重視したカリキュラムを導入したりしています。
幼児教育でも4歳までに到達すべき発育目標のひとつに「言葉を使って役柄や経験を再現できるようになる」を掲げていて、壁に様々な表情をしている人々のポスターを貼り「これはどんな顔?」と繰り返し質問し、「じゃあ、みんなもこの顔できる?」と同じ表情をさせ、「では、みんなはどういうときにこんな顔をしたい気分になる?」と問いかけ、「気持ち」と「それを表現すること」、そして「それを伝えること」はリンクしていると教え、自分の感情を正しく他者に伝えられるように訓練するそうです。

多様性が進む社会で、自分の感情を正しく表現することと、人の感情を理解する能力はとても重要なんですね。
(DVを受けて育った子供は、多くの場合このどちらも苦手だとか)

作中、11歳息子の中学でも大々的に演劇の発表会が行われるんですが、あるとき主役の男の子から「春巻きが喉に詰まったような東洋人の声」と言われ喧嘩になってしまいます。中学に上る前はカトリック系の比較的上層階級の学校に通っていたため、そのような場面には出くわさなかったのだけど。生活圏が変わることで、道端で突然大人に「ファッキン・チンク」と怒鳴られたり、急激にレイシズムを体感することになります。
しかし、本番前に喉を潰してしまった主役のためにテーマ曲を歌う大役を買って出た息子は、やがて主役の男の子(親に影響を受けた生粋のレイシスト・・)とも友人になっていきます。

それからも、貧富の差、宗教、出身地の違いなどによって、様々な分断を経験する息子。
差別は日常に存在しているけど、攻撃的な相手はバカではなく無知なだけ。
多様性はうんざりするほど面倒だが、無知を減らすことはできる。
人間は人をいじめるのが好きなのではなく、罰するのが好きなのだ。
絶対に超えられない壁はあるし、他人を完全に理解することなどできないが、適切な距離で寄り添って生きる事はできる。ということを学んでいきます。

エンパシーとはなにか?という学校の課題に対し、11才の少年は
「誰かの靴を履いてみること」と答えます。


これから世の中はより多様に、より複雑になっていくはず。
たとえ理解できなくても、相手の靴を履いて、同じ立場からものを見ようとする努力を、僕らは意識してしていかなきゃいけないんだと思います。

とかくまだコミュニケーションの手段が限られていたころ、僕らは少ない情報から時間をかけて相手を思い、様々な可能性を想像して歩み寄っていたはずじゃないですか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?