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妄想爺のとんでも史観 (40)

妄想爺のとんでも史観 (40)

 倭人と稲作 倭人と少数民族

 九州薩摩半島の南約50㎞の海底には、鬼界カルデラと言う半径約20㎞の海底火山が噴火した跡があるそうです。
 今から7,300年前の事、大爆発を起こし南九州から西日本は壊滅し火山灰は南東北まで到達したそうです。
 その頃この国に住んで居た人達を、縄文人と呼ぶそうです。

 この国に人が住むようになったのは、約15,000年前からだそうです。多分もっと前からだとは思いますが、、、
 陸続きだったとも言われていますから、北から南から西から歩いて来たり、丸太船や葦の船、竹を結んだ筏で渡ってきたのでしょうか。
 アフリカや中近東、インドや東南アジア、オーストラリアやオセアニア。大陸や南シナ海、太平洋を渡って来たんだと思います。
 そう言えば、スンダランドと言う大陸が南にあったとも聞きます。沈んだのでしょうか?、陸地が移動したのでしょうか?
 前にも書ましたが、この国に住んで居た人達は色んな所からやってきた人達です。多民族国家だったのです。
 グループ毎に集まって暮らしていたんでしょうが、交易を始めると交流や交配が進みます。
 頻繁に起きる天災から逃れる、生き残る為に助けを求めます。普段から信用して貰っていないと助けて貰えません。
 この国の人達は、争う事を放棄しました。ここが大陸の様な地続きの社会で生き延びてきた人達とは、根本的に違う人達が残ってきました。

 多民族国家が交配を重ね、争いを放棄した混血児たちが交易をしていた時に、鬼海カルデラの大爆発が襲います。
 四方八方へ逃げて行くでしょう。ある人達は東日本や東北まで、またある人達は半島経由で大陸東北部まで、別の人達は台湾経由で大陸の長江河口付近まで逃げたんだと思います。
 逃げきれたのは元居た人達の内、ほんの少数だったのだと思います。

 逃げ延びた先で暮しを再開します。
 そこで稲作を学んだという考えと、稲作を持ち込んで大規模に始めたという考え。どちらだったのでしょうか?

 私は、避難民が稲作を持ち込み、大規模に集団営農を始めたと思っています。

 鬼海カルデラが爆発するその日まで、縄文人たちは稲作を行っていたと思うのです。
 水田や畑を整備し、植え付けて収穫するのではなく、湿地帯に自生していたり、自生していた稲から別の湿地帯へ種をまいたりしていたと思うのです。また陸稲は土を耕し、種を蒔きます。
 稲作中心とまではいきません。山に入れば木の実があります。稲の他にも豆や稗、粟、麦が自生しています。タロイモや里芋の様なものもあったと思います。小動物も居ます。
 稲を中心に置く必要が無かったのです。

 縄文人が避難先の大陸とかで食料を確保しようとすると、近くに山がありません。木の実が採れません。
 長江の河口付近は湿地帯があります。そこに携行していた豆や稗、粟、麦、稲を植えていきます。
 避難民を多数養う為、多量の収穫を望める穀物栽培を選んだのだと思います。
 元々争いを放棄し、助け合う人達が生き延びてきた縄文人たちは、共同作業が苦では無かったのでしょう。湿地帯を水田にして、稲作を進めていきました。

 300年経ちました。
 長江河口流域に暮らしていた人達の中に、昔住んでいたと語り継いできた東の島へ帰ろうという人達が、海を渡り始めます。
 大規模稲作地帯から、人々が故郷へ帰っていきます。
 火山灰に埋もれていた土地は、大雨による灰の流出や雑草や木の植生拡大による肥沃化が進んでいました。、
 水田耕作の技術を習得した人達が、語り継いできたこの国に、水田整備による稲作を拡大していきました。
 東北南部や対馬を渡った半島まで、稲作が出来そうな所なら、水田整備をしながら稲作を進めていきました。

 そうです。逃げた縄文人が長江河口で大規模稲作を発展させ、この国に戻ってきたのです。
 長江河口に残った人もいます。漢民族の侵攻により山岳部に逃げた人もいました。南のチベットやインドシナへと逃げた人もいたでしょう。
 そこでもまた、その場所に適合した稲作を進めていきます。

 そう言う人達は、後世『 倭人 』と呼ばれました。
 縄文語(弥生語?)で 私たち は ワンガ ( 我が?)と言うそうです。私 は ワ の一言だったのでしょうか?

 何故、縄文人は稲作、しかも大規模集団営農が出来たのでしょうか?
 争わず、助け合い、協力して事に当たる縄文人だったからです。
 人を襲い、モノを盗み、生き残る為に邪魔な人は殲滅していく大陸育ちの人達では、協力し合えません。長期的な生産計画も行えません。

 物造りの基本を稲作で考えると、
 Man 人: 争わない縄文人
 Machine 設備、道具 : 木や石、鉄を加工した農具
 Material 材料 : 長期保存食として持っていた 米や穀物(長江の湿地帯には自生していたのかも?)
 Method 方法 : 季節を読み、発芽、植え付け、育生、刈り取りまでの水田(水)の管理。

 現代世界に冠たる「物作り日本」の先祖は、縄文人です。弥生人や古墳人は、先祖が縄文人も含む、後世の移住者です。稲作は、共通の技術の伝承で受け継がれていました。

 余談ですが今、世界で生産される殆どの麦の元は日本で改良された 農林10号 です。ノーベル賞は他の国の方が貰いました。

 やまとやじろべえでした。
 では、また、ごきげんよう。

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