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黎明の蜜蜂(第19話)

涼子は大阪環状線の天満駅を降りると駅前の比較的広い道を横断し、右に歩き出す。3分も歩くと通りに面した6階建てビルの1階に、間口4メートルほどの店が見えてきた。

間口一杯に巽不動産という横長の看板がかかっている。その下の4枚に区切られた全面ガラスには、ドア以外を除いて所狭しと物件情報の紙が貼られている。

ゆうゆう銀行へ出向する前、取扱い不動産売買案件を確認するため来た店だ。中にはカウンターがあり、顧客用の椅子が3つ入り口側に、カウンターの向こうには事務机6台が2台ずつ向き合わせになるよう置かれている。
全面ガラスのため、張り紙の隙間から中の様子も見える。件の不動産を担当した楢崎もいる。

涼子がガラスドアを押して店に入ると、PCに向かっている者も、電話を掛けている者も皆一斉にこちらを見て驚いた顔になる。楢崎は少し口を歪め慌てたような顔をしたが、ゆっくりとカウンターの方に出てきた。

「これは、これは、お久しぶりで。今日は何の御用で?」
と口火を切った。涼子が何か言う前に右手で、どうぞと奥の方を指し、一つだけある個室に案内する。以前と同じ部屋だ。涼子が中に入ると、お待ちくださいと言ってドアを閉めた。

部屋の中を見回す。濃い茶色の合板壁で囲った窓のない部屋に、それよりは薄い色のテーブルが真ん中に置いてあり、黒革風の背もたれのある椅子が6脚、それを囲んでいる。

壁には「宅地建物取引業免許証」が額に入れて掛けられている。部屋の隅には木目に似せたスティール製のコート掛けが突っ立っている。それだけの部屋だ。
「お待たせしましました」
背後から声がかかり振り向くと、楢崎を率いるように小太りの男が部屋に入ってきた。

「支店長の沼田です。お世話になっております」
油の回ったような顔の下半分に慣れた笑みを浮かべながら、探るような眼で涼子を見ている。どうぞ、と勧められた椅子には座らず、涼子は要件を切り出した。

「お忙しいところ、恐れ入ります。今年の春にM銀行のお客様の加藤様が購入された一棟売りのアパートの件でお伺いします。当時、大阪浪速支店におりました私の決裁印の押された書類が御社にも保管されていると思いますが」
加藤様?と沼田は怪訝そうな顔をする。

「3億円規模の不動産仲介のアドバイスに携わったケースは初めてだとおっしゃっていましたから、ご記憶にあると思います。楢崎さん」
そう声を掛けられて、楢崎は沼田の顔色を窺う。沼田は知らぬ顔をしているが、涼子は意に介しない。

「最近ネット・ニュースで、生活保護の制度に乗じた怪しい不動産取引のことが取りざたされているのをご存じですね?」
「はあ、そういうような話もあるらしいですね。こちらは、ネット・ニュースなんか、まともに取り合っている暇はないですがね」

「そうですか。どうも最近、週刊誌あたりが新手の貧困ビジネスじゃないかと興味を持っているようです」
沼田の頬がピクリと動き、急にドスの効いた声になる。
「あんた何を言いたいんや。うちはな、正当なビジネスをしてるんや。賃貸されている物件のオーナー・チェンジは賃料を正しく反映させた値付けをしてる。変ないちゃもん付けんなよ」
「このようなケースの値付けの怪しさについては、NHKも特集を組むのじゃないかと聞きました。確かな筋からです」
「あんた、人を嚇かすつもりか!」

沼田は完全に頭に血が上っている。知らぬ顔でのらりくらりと涼子の言葉をかわして煙に巻くつもりだったのが、すっかり頭から飛んでしまった。
「一体何が問題やねん。あんた、契約前から何やいろいろ嗅ぎまわってたらしいな」

その後は、鷺沼支店長が言っていたのと同じようなことを、ドスの利いた声で繰り返す。一段落したところで、涼子は切り出した。

「ご見解は伺いました。確かにM銀内部でも今、法律専門家を動員して、この問題について調査しています。おっしゃる通り、法を犯したとか、そのような断定はむつかしいケースかも知れません」
「ほな、何があかんねん?」
相変わらずドスの利いた声で、しかし今度は勝ち誇ったように言う。

「しかし、道義上の問題は残ります。この件が世間で大きく問題視され、取り沙汰されることになると、関わった御社のビジネスに響くことになる恐れは十分にあると思われます」
「それは、あんたのとこかて、同じやろう。それどころか、うちらみたいな地場の不動産屋と違ごて、天下のM銀さんや。大変なことになりかねんな」
眼が意地悪く面白そうに光った。

 「その通りです。たとえ契約書自体には関わらなくても、そのような取引をアドバイスしたとなると、世間で何と言われるか」
 「そら炎上しまっせ、へっへっ」

 「そうですね。巽不動産さんは売り主さんにも、M銀が顧客に勧めているというようなことも仰ったのでしょうね」
 沼田は、先ほどまで知らぬ存ぜぬで通そうとしていたことも忘れて、涼子の誘導尋問にすっかり乗っている。
 「そや。それで売り主さんにも、取引に自信を持ってもらいましたわ」

 得意げな沼田の顔に向かって、涼子はさりげなく決裁印のことを持ち出した。
 「私の決裁印が押された書類のコピーがその裏付けになったわけですね」
 「まあ、契約書面に添付はせんが、そういう話はしますわな」
 沼田が楢崎の顔をちらと見ると、楢崎は頷き返した。
 「コピーは売り主さんにお見せして話されたんですよね?」
 楢崎の方を見ると、頷いた。

 「しかし、私はそのハンコは押していないんですよ」
 「なんやて?」
 沼田の顔に驚愕が走る。しかし、一瞬で不敵な顔を取り戻した。
 「そんなもん、わしらが知ったことか。こっちはM銀さんから書類のコピーを貰った。それで充分や。ハンコ押したかどうかは、そっちで勝手に争うてくれ」

 「そう簡単なことでも、ないかも知れません」
 「思わせぶりは止めろ! なんやねん?」
 「今回、この様に騒ぎが大きくなって、M銀も対処に苦慮しています。決裁書自体は、内部だけの話で、契約自体とは切り離されています。ですから、間違いがあっても内部の話として処理できます」

 涼子は沼田の顔を覗き込んだ。
 「しかし、コピーが外に出て、それを元に取引の話をされたとなると、決裁書の存在は違った意味を持ってきます」
 「どういう意味や?」
 「先ほど申しましたように、その書類は当時決裁権限を持っていた私は承認していないのです。つまり、存在しなかった書類です。それについては大きな疑問が湧きおこっています」

 「つまり、何か? わしらが勝手にその書類を作って、客をその気にさせたとでも言いたいんか? おい、ええかげんなこと言いおったら、ただでは済まさへんで!」
 「もちろん、私はそんなこと思っておりませんが、M銀にとって大きな問題となってしまったのは確かです。必死に調査中です。巽不動産さんも、そのような偽造書類の作成には無関係と証明する必要も出てくるかも知れません」

 「コピーはM銀から、貰ろたんや! 偽造とは何や、偽造とは!」
「もちろん、そうです。しかし、今は全てが混とんとしているのです。だから、それぞれの立場の人が自分に関わる証拠は確保することが、一番のリスク・ヘッジになります」
 沼田は、十分に呑み込めていない顔をしている。

「御社の立場、お客様の立場、M銀の立場、私の立場、それぞれ利害関係がある訳です。そして真実がどこにあるか分からない。その場合、それぞれの立場の人が、自分の利害に関わる真実の裏付けを確保しておく方が、全体の真実にたどり着きやすいということです」
 「要は、自分で自分を守るための証拠をつかめ。お互いがそういうスタンスでおったら、人に裏をかかれん。お互い誰も裏をかかれへんのは、ホントの話してる時だけや言うことか。そやろ? 難しい言い方すな」

 涼子は、その通りです、と言ってにこりと笑った。後は比較的スムーズに件のコピーを見せて貰え、コピーの写真も、印鑑の部分に限ってならと撮らせてもらえた。
 

 店を出ると、すでに夕暮れが迫っていた。涼子は小さくふっと息を吐いてから駅へと急ぐ。

 決裁書の問題が取りざたされてから、涼子はM銀のコンプライアンス部門に2回呼び出された。質問する方は、涼子が決裁印を押したということを前提として尋問してくる。決裁印は押していない、むしろその取引には関わらない方が良いと主張していた、と何度言っても聞く耳を持たない。

それでは、涼子の印が押されているという書類を見せてくれ、と言うと、それはこちらで確かめるからと言って、涼子の印鑑を出せと言う。ためらうと、涼子には調査が終わるまで銀行用の印鑑を持つ権利はない、と言って没収した。

銀行用の印鑑は、入行時に一人一人に与えられる。業務の効率を考えたワンタッチ式の印鑑だが、名前の文字はかなり複雑なものとなっている。

入行時に作ってもらった印鑑は、行員である間ずっと使い続ける。万一失くしたりすれば始末書を書いて、同じ文字のものを新たに作ってもらう。保管は鍵のかかる引き出しと決まっていて、鍵の掛け忘れの抜き打ち検査もある。掛け忘れると始末書だ。

複雑な文字を使うのは、正式な書類にも使う印鑑の偽造防止の意味もあるのだろう。注文するには上司の承認が要る。作成業者も決まっていて、必ず担当部署を通して注文、購入される。

それ程厳重に管理されている印鑑が、涼子の知らぬ間に押されたというのは信じがたい。涼子は印鑑を置き忘れたことも、保管している引き出しの鍵を掛け忘れたこともない。

残る可能性として、偽造を疑った。そんな頃、章太郎が新たな情報をもたらした。

これは、単に支店の問題ではなく、何かもっと大きな背景がありそうだと言うのだ。銀行全体の政治事情や役員レベルの人事の問題が絡み、事件が複雑化していると、章太郎は佐々木から教えられた。

どういうからくりがあるのか具体的には分からなかったが、裏で何かそのようなことがあるのは涼子には想像できなくもない。とにかく自分のすべきことは、決裁印を押したのは自分ではないと証明することだ、と涼子は思った。

その為には、まず自分の持つ印鑑と、決裁書に押された印の印影を照合することから始めよう。そう思ってコンプライアンス部門の人間に頼んだが、なぜか問題の決裁書は見せて貰えず、逆に印鑑を取り上げられた。

そう話すと章太郎は驚き声を失ったが、涼子は「ご心配なく」と言って事前にその印鑑の印影は幾つか取って置いたことを告げる。やっぱり高島さんだ、抜かりはない!と章太郎は感嘆の声を上げた。

巽不動産に、その決裁書のコピーが渡ったことは、涼子は単に推論しただけだ。M銀行の普段の業務手順や大阪浪速支店の雰囲気、担当者の性格から考えて、その可能性が高いと踏んだ。
それで、沼田や楢崎に誘導質問をしてみたら、みごとに乗ってくれたのだ。運が良かった。

そんなことを思い出し、涼子は次のステップを考えながら新幹線に乗り込んだ。新大阪二十時三十三分発。この時間なら、今夜のうちに家まで帰り着けるだろう。
                         (第20話へ続く)
黎明の蜜蜂(第20話)|芳松静恵 (note.com)
 


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