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塩崎光蔵 旭日小綬章 ファミリーヒストリー

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天皇陛下から勲章をもらった祖父、塩崎光蔵について調べてみました。

マイ・ファミリーヒストリーですね。

祖父は、成蹊大学敷地内の広い庭のある一戸建てに住んでおり、私の本籍地は、今でも成蹊大学の住所のままです。

まず、「成蹊大学 塩崎光蔵」で検索してみました。

すると次のようなブログが出てきました。

▼川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」
http://kawaguchi-kgfighters.sblo.jp/article/24104549.html

そのブログ記事の中に祖父が出てきます。

引用-----↓ここから-----
1927年『アメリカンフットボール』の出版に先立ってフットボールのゲームが行なわれた。4月30日、旧制成蹊高校グランドおいてである。成蹊高校は三菱財閥の岩崎小弥太が理事長をし、英国流のパブリック・スクールを範としていたので芝生のグランドがあった。高等師範学校であるためアメリカのテキストの通りに行った場合、実際にできるのかどうかのテストを行った。防具も用意された。このゲームに参加したラグビー部員の中に塩崎光蔵という人がいた。橋本順治は塩崎と甲組で同級生だった。塩崎はこの本の翻訳チームにも加わり、のちに筑波大学ラグビー監督※になった。
※厳密に言えば塩崎監督のときは筑波大学という名称ではないが、名称の履歴にそい旧名で表してもイメージがわかない
引用-----↑ここまで-----

祖父は、筑波大学(当時、教育大学)のラグビーの監督をしていたことは聞いていました。

戦争から引き揚げてすぐに成蹊大学に勤務。

その後、教育大学(現筑波大学)に勤めたようです。そこでラグビー部の監督になりました。

成蹊大学の敷地内の祖父の家に、ほぼ合宿状態で、教育大のラグビー部の学生が通ってきたそうです。

一方、自分自身も、ラグビーの経験を東京高師でしています。

早稲田大学ラグビー蹴球部の1926年の試合記録に、東京高師のメンバーとして祖父の名前が出てきました。東京高師というのは、筑波大学の前身です。

▼1926-10-06vs東京高師/早稲田大学ラグビー蹴球部公式サイト
https://www.wasedarugby.com/gamerugby_detail/id=1118?fbclid=IwAR2dSu51rlU3Nn1on1cG5kdFZ0iTibFuvXHNkcwHJ9wxIuihWOS7EaaCpz0

さて、先のブログには、さらに次のようなことも書かれていました。

引用-----↓ここから-----
『アメリカンフットボール』の復刻を新聞記事にしていただいた。それをご覧になった伊與田康雄氏というかたから出版社を通じて連絡をいただいた。以前筑波大学のラグビー部監督をされていたということであった。連絡いただいた当時は大阪の大学に勤務しラグビー部の監督を引き受けられていたので、お訊ねし話をうかがった。塩崎光蔵氏は大先輩にあたり、塩崎氏は後継者である伊與田氏に自分たちは日本において最初期にアメリカンフットボールのゲームをしたメンバーであることを口伝されたそうである。「塩ジイは」と伊與田氏は切り出された。「私に、君はぼくの後継者だから伝えておきたい。ぼくらはね、岡部さんの後を引き継いで昭和のはじめにアメリカンフットボールをしたんだよ、と言っておられました」
引用-----↑ここまで-----

どうやら祖父は学生時代、日本でアメリカンフットボールを始めたレジェンドの一人だったようです。

また、「塩ジイ」と呼ばれていたことを知り、なんとなくうれしくなりました。

実は、硬式テニスを小学校の時から教えてくれたのは、この「塩ジイ」でした。東伏見のテニスコートに連れていかれて厳しくトレーニングさせられました。

同時に水泳やゴルフも「塩ジイ」に教わりました。今思えば、塩ジイのおかげで、スポーツの習い事いらずだった、私自身の少年期です。

そして、テニスを今の歳まで楽しむことができているのは、「塩ジイ」のおかげであることをあらためて実感しました。

私からも、心からの勲章を渡したいです。

★ラグビー (1958年) (体育図書館シリーズ〈第10〉) - – 古書, 1958/1/1
塩崎 光蔵 (著)

(*ᴗˬᴗ)⁾⁾

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