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「不安と投げやり」「不信と傷つき」の荒野にいる高学年の子どもたち

一 高学年は「競争」の "最後の戦場"

今の子どもたちは幼児期から競争がスタートする。スイミングやサッカー等のスポーツはもちろん、ピアノやバイオリン、そして学習関連の習い事……。それらが二~三歳からスタートできるように準備されている。

しかし、実際には早くからスタートできる家庭とそうでない家庭があることも事実であり、スタート時からその格差は広がっている。

この競争は "必ずしも幸せに結びつかない「幻想の競争」である" ということを保護者はなんとなく気づいている。それでも子どもたちの「勝利」を信じて(願って)子どもたちをスタートラインにつけるのである。

子どもを幼児期から競争のスタートラインにつける保護者の思いは、まずは子の幸せを願う愛情がある。しかし一方で、「競争に勝利できるか、逆に敗者になるかは『自己責任』である」といった「新自由主義」の考え方の「あおりとおびやかされ」がある。この「あおりとおびやかし教育政策」に追い立てられるかのように競争に参加し、生きづらさを抱え込まされているのが今の日本の子育て・教育状況であると言える。

ちなみに、今の子どもたちは、仲間の失敗や間違いを許さない傾向と、一方で自分を責める傾向が強いのは、自己責任を強いられてきたからなのかもしれない。

さて、幼児期から、可能な限り「子育て競争」に経済的にもつぎ込んできた幻想のレースも、小学校高学年で、ある程度結果が見えてくる。

スポーツの習い事を続けてきた子も、自分の実力を目に見える形で突きつけられ、どんなに努力しても自分は上にはいけないこと、勝てない仲間がいる事に気づくことになる。そしてその中で自分を見失い、荒れることもある。

学力も同様で、自分の「学力」を仲間と比較してみることになり、自分の「学力」のレベルはこの程度....と自分を評価しつつ、一方で、将来に対する大きな不安とあきらめ、中には投げやりな態度をとる子も出てくる。これは、高校進学という具体的な第一のゴールが見えてくる中学校二年生あたりまで続く。

そして中学校二年生で「第一次競争」は一段落する。子どもたちは競争の結果がどうであれ、ほっと一息つくのである。そういった意味で、小学校高学年の時期が「最後の戦場」であると同時に、子どもたちが一番不安におののく時期であると言える。

私たちは、子どもたちのこうした幻想のレースの真実を知り、その不安と苦悩に並走することが求められている。それは答えを出す対応ではなく、一緒になって頭を抱えられる関係であり、呼びかけて応答の関係であるとも言えるのである。

二 「高度?」なコミュニケーションからあぶり出される子どもたち

通級指導とは、子どもの自立を目指し、障害による困難を改善・克服するため、一人一人の状況に応じた指導を行うことを言う。この通級指導を利用している子や、特別支援学級に在籍する子が急増している。通級指導を利用する子は二0一七年調査でついに十万九千人にも及び、その後も増え続けているのだ。このことをどうとらえれば良いのだろうか?文科省は認知が広まったことと、個別な対応や特別な支援に理解が広がった……、と前向きに評価しているが、果たしてそれだけなのだろうか。

私は、通級に通う子どもが急増の背景には二000年前後からの「一斉・一律・競争」の教育の中で、それに適応できない子どもたちが「あぶりだされた」疑いをどうしても持たざるを得ないのである。

学校は、学校生活の細かな所作や生活態度を統一徹底させ、教師は、教育成果を見える形で出すように求められる中で、個性ある子どもたち、特性を持つ子どもたちが「あぶりだされた」のではないかと危惧しているのである。

さらに学校は、一斉・一律に行動、生活できない子を問題視し、マウントをとるような強い指導で調教しようとするので、発達の特性を持つ子が二次障害を引き起こし、反抗的・暴力的になっている事例も少なくない。

また、子どもたち同士の中にも、私が「嘘芝居コミュニケーション」と呼んでいる "高度なコミュニケーションスキル" が求められるようになり、それについていけない子ども……、ついていこうとしない子どもが、排除されているのではないか、とも見ている。
 
「嘘芝居コミュニケーション」とは、
・関係を保つために、互いに本音でないことを了解しつつ付き合い
・強い意見に同調し
・時にはおちゃらけ、
・意図的に誰かをいじり、時には自分がいじられるように仕向け、
・そのために必要以上に悪ふざけができる自分を演出するコミュニケーションである。

そんなコミュニケーション世界についていけない子……、必要としない子があぶり出されているような気がしてならないのである。

三 教室の中にシェルターを……、そしてやがて立ち上がる

幼児期から "自己責任レース" に参加させられ、やがて現実を突きつけられる高学年の子どもたち。

学校の理不尽な管理と、過度な気遣いが必要な仲間関係の中で傷つき、生きづらさを感じている高学年の子どもたち。

まさに高学年の子どもたちは "「不安と投げやり」「不信と傷つき」の荒野" にいる。そんな高学年の子どもたちの実践テーマを提起してみる。。

[安心と信頼関係はお互いの理解を深める]
子どもたちは身体的にも精神的にも守られなければならない。特に今の学校現場のように競争と排除が押し寄せてくる中で身を守ることは必須である。まずは、教師が子どもたちと安心と信頼の関係づくりにつとめよう。

「ロビー活動」を積極的に進めよう。「個人ノート」を多用し、一人ひとりとじっくり語り合おう。そしてその過程で子ども理解を深め、出会い直しを何度でもしていこう。

また、同じ生きづらさを抱えた仲間の存在を知らせることも大切。そういった仲間と、学級内クラブやボランティア活動など、時には学級を超えた仲間づくりや行動提起をすることも考えられる。

それらの活動の中で、自分とは違った仲間が自分と同じ生きづらさを感じながら生きていることを知るだろう。そして自分と違ったものを持っている
仲間こそリスペクト出来ることに気付くであろう。

[点数で競う学習に対峙する「学び」を]
社会に課題や問題をみつける目と、それに対する「学び」の指導が大切だ。子どもたちが自ら立ち上がるためにはこの「学び」が原動力となる。その「学び」とは、点数で競う学習に対峙する「学び」である。その「学び」の必要に気づくためには、次の三つがキーワードだ。

1.情報に批判的に関わること
2.自分とは違った意見こそに耳を傾けて議論を深めること
3.学びから、行動することへの見通しを持つこと

[学校を変えるルートの再生]
自分たちの生活に直結している学校生活を変えることができるルートの確保、または再生が必要だ。具体的には児童会の利用と再生の道筋をもう一度見直してみよう。子どもたちの声が反映され、要求が実現されるような児童会の「カタチ」を今の時代にあった組織の仕方で見直してみよう。

[教師の共同とヘルプできる力]
教育活動は実は共同作業である。小学校では学級担任制であるので、ついついそのことを忘れてしまう。共同というのはなんでもかんでも足並みをそろえることではない。一緒になって子どもの成長のストーリーに関わり、科学的な分析と指導のアイデアと知恵を出し合い共に実践していくことである。そして困った時、悩んだ時にはヘルプできる関係と力を持つことである。ヘルプする力は教師にとって大切な力量の一つである。

[保護者と和解して連帯する]
教師と保護者は和解しなければ連携・連帯はできない。お互いが持っている不信感を消すためにお互いの生きづらさを知る必要がある。同じ生きづらさの中で生きていることに気づく必要がある。そのためには自分の弱さやつらさを出し合えるような対話と空間が必要だ。

SNSの時代、不可能ではない。

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