佛神教 一

佛(ぶつ)は神(かみ)の枝(えだ)なり。神(かみ)は本(もと)なり。良(よ)く其(そ)れを味(あじ)わいて居(い)れよ。此(こ)れ佛(ぶつ)は神(かみ)なり。人(ひと)。人(ひと)は、神佛(しんぶつ)成(な)れば、此(こ)の佛(ぶつ)の世(よ)を、神(かみ)に直(なお)す事(こと)要(よう)せざるが如(ごと)くと思(おも)うも知(し)らず。此(こ)れ考(かんが)えて見(み)よ。今(いま)の佛(ぶつ)を見(み)よ。様(さま)を見(み)よ。此(こ)れ、乱(みだ)れし事(こと)、云(い)わずとも知(し)るが如(ごと)し。今(いま)は其(そ)の穴(あな)を補(おぎな)いても持(も)つ事(こと)能(あた)わず。此(こ)れ補(おぎな)いては永(なが)く保(たも)たず。成(な)れば今(いま)、神(かみ)出(いで)て、此(こ)れ直(なお)すなり。此(こ)れ佛(ぶつ)を信(しん)じる事(こと)悪(あく)と云(い)わず、善(ぜん)なり。成(な)れど佛(ぶつ)は人(ひと)を思(おも)いて、神(かみ)に従(したが)えと云(い)う。神(かみ)は佛(ぶつ)なり、佛(ぶつ)は神(かみ)なり。此(こ)れ佛(ぶつ)神(しん)成(な)れば、佛(ぶつ)を信(しん)じても良(よ)きが如(ごと)く成(な)れど、佛(ぶつ)は乱(みだ)れ居(お)りて、汝(なんじ)等(ら)其(そ)の教(おしえ)を聞(き)いて居(い)れば、次第(しだい)に悪(あく)に流(なが)れ行(ゆ)くなり。流(なが)れざる前(まえ)に佛(ぶつ)は叫(さけ)ぶなり。良(よ)く聞(き)けよ、此(こ)れ誠(まこと)の佛(ぶつ)と思(おも)う成(な)れば、此(こ)の言(げん)に従(したが)えよ。神佛(しんぶつ)は決(けっ)して人(ひと)に悪(あく)を教(おし)えず。此(こ)の所(ところ)を証(しょう)しても良(よ)し、証(しょう)す。
佛(ぶつ)を信(しん)じるも同(おな)じ成(な)れど、神(かみ)は本(もと)なり。神(かみ)を信(しん)じれば佛(ぶつ)をも信(しん)じるに同(おな)じ。佛(ぶつ)も神(かみ)の道(みち)も同(おな)じ。神佛(しんぶつ)は、此(こ)れ此(こ)の天地(てんち)宇宙(うちゅう)萬有(ばんゆう)の祖先(そせん)なり。此(こ)の世(よ)は神佛(しんぶつ)に依(よ)って立(た)つ物(もの)なり。神(かみ)無(な)くして佛(ぶつ)、佛(ぶつ)無(な)くして神(かみ)と云(い)われず。又(また)世(よ)も立(た)たず。佛(ぶつ)は此(こ)れ、佛(ぶつ)の乱(みだ)れを悲(かな)しめど、神(かみ)の世(よ)に成(な)る事(こと)を欲(ほっ)す。大(おお)いに喜(よろこ)ぶ。必(かなら)ず人(ひと)は、神(かみ)成(な)りとも、佛(ぶつ)成(な)りとも、見分(みわ)けて信(しん)ぜよ、見分(みわ)けずして信(しん)ずるは、此(こ)れ迷信(めいしん)と云(い)うなり。誠(まこと)の神(かみ)を信(しん)ぜよ。佛(ぶつ)を信(しん)ぜよ。此(こ)れ見(み)分(わ)けるに、自(みずか)らの心(こころ)を善(ぜん)に成(な)せよ。良(よ)き心(こころ)を持(も)てば、死(し)して楽(たの)しき所(ところ)に行(い)く。俗(ぞく)に人(ひと)の云(い)う、極楽(ごくらく)と申(もう)す所(ところ)に行(い)く。悪(あし)き事(こと)成(な)せば、地獄(じごく)と申(もう)す所(ところ)に行(い)く。世(よ)の人(ひと)の地獄(じごく)と申(もう)す所(ところ)は、中々(なかなか)人(ひと)の思(おも)い居(い)るが如(ごと)き所(ところ)に有(あ)らず。苦(くる)し。極楽(ごくらく)の楽(たの)しみは言葉(ことば)にも現(あらわ)されず。

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