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言葉にならない瞬間にちゃんと言葉を充てられる人になりたい。

感情のボーダーラインがあるとすれば、その線をやや下回ったところを停滞気味に泳いでいるのがぼくだ。喜びとか楽しみとかそういうポジティブな感情を表現するのが苦手。あと感動系の映画とかドラマを観ていても、涙することはほとんどない。そして怒りを人にぶつけることも苦手だ。この時点で喜怒哀楽のうち、喜と怒と哀と楽は欠如している。全部だ。感情欠落人間。

そう思っていたけれど、ちゃんと嬉しいとか楽しいと感じることもあるし、悲しいとも感じるし、苛立つこともある。「欠如している」と言ったけれど、正しくは感情の表現が苦手なんだと思う。その代わり、こうして文章に自分の感情を書き起こすことはできる。できているのかはわからないけれど、自分を見つめ直したり理解しようとしたりすることは大切だと思う。

感情には形がないから、頭の中でぐるぐると考えるだけでは答えが見つからなくてさまよってしまう。もちろん文章にしたからといって、答えが見つかるわけではないけれど。それでもぼくは、答えのないことを考えるのが好きなんだろう。どうしようもないことや取り返せないことを、たくさん考えてきたように思う。きっとそれは、この先もかんたんには変わらない。

一人ひとり違うぼくらは、同じ時間の中でときにわかり合い、ときにすれ違う。うまい言葉が見つからなくて、届けたい思いが伝わらないこともあるだろう。思わず黙り込んでしまって、その沈黙が人を苛立たせてしまうこともあるかもしれない。言葉は、自分と誰かを繋ぐために必要なもの。だけれどどうしようもなく言葉にならない、もしくはできないことが起きたとき、自分の本当の気持ちや感情を見つける旅に出かける。

自分の心の深いところに潜り込んで、ただひたすらに小さな欠片を拾い集めていく。一つひとつを透明の瓶に入れて、感情の輪郭を作っていく。ボヤけて見えても、たしかにそこにある。そしてそのボヤけた感情の輪郭を形にするのは「言葉」だと思う。人の思いは、言葉にしてはじめて形になる。言葉にしなければ、ただ自分の心の中で肥大化していくか消滅していくかのどちらかだ。

この世の中には、言葉にしたくても言葉にならないことがたくさんある。それは、感動だったり戸惑いだったり驚きだったりするだろう。まだまだ、言葉を充てられない感情や出来事がたくさんあると思う。そんな瞬間を大事にしたいし、向き合っていきたいとも思う。「すごい」「やばい」「エモい」のその先を知ること、それだけはサボらないように生きていきたい。

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