『キリンに雷が落ちてどうする』を読んだ

 久々に分厚めの本を一冊読み切った。これくらいで分厚いと形容すると読書家からは失笑されるかもしれない。

 子供の頃ならきっと4時間もかからずに読めたのに、大人になった自分は本を読むのが苦手になったな、と感じた。

 なまじ語彙力がついてしまったが故に、わからない言葉を調べるターンが苦痛だ。これなんだ?と思った単語を便利な箱に入力すればすぐに済む話ではあるんだけど……。

 親に聞く、電子辞書を引く、少し乱暴だけど文脈で意味を推測して読み飛ばす。そういったことを小学生の頃にはしていた。本を読んでいても難しい文章や単語に対して概念的な理解が及ばないことがしばしばあったけど、とにかく先が気になるからその言葉の群れを無視してページをめくっていた。

 今の僕は全部の文章を咀嚼して、解釈して、わかったと思い込んでからでないとページを捲ることができない。

 こう育ってしまった僕にとっては天敵のような本だった。

 作者が持ち合わせている言葉の中でも比較的平易な物を選んで使ってくれているのは読んでいてわかったけれど、それでも哲学的な概念や言葉、横文字に疎い僕には少し難しかった。

 頭にクエスチョンマークを浮かべながらわからなくてスルーしかけた文章を噛み砕く。ようやく飲み込んで次のお話へ。それを苦しみながら半月ほどやった。

 読むのが心理的苦痛を伴う内容だったというのもある。言語化がなんとなく難しい「フワッとそう思ったことあるなあ」という概念が綺麗に文章として並んでいるのを見ることは、形容し難い不思議な苦痛を与えてきた。僕にできないことだからかもしれない。

 僕は書いた人を知っていたからこの本を手に取ったのだけど、作者はかなりのうっかりものである。読んでてもかなりのうっかりエピソードが出てくる。

 僕も負けず劣らずうっかりもので、つい最近も乗り換えを2回ミスって取り返しのつかない遅刻をしかけた。タクシーに乗ってことなきを得たけど。

 作者がうっかりしているのは、思考しているからなんだと思う。「思考」に「生活」のリソースが取られてるんだ。サブタイトルに「少し考える日々」とあるが、少しとは言い難い量の思考の軌跡が本の中にはあった。

 僕はあんまりものを考えない方で、文章が下手くそで、概念の言語化が不得意。同じうっかりものでも随分能力値に差があるじゃないの。僕が「生活」に割かなかったリソースは一体どこへ?

 そうだ、多分、読んでて苦しかったのは、勝手にシンパシーを抱いていた相手の才能を直視したからかもしれない。

 自分は作者の廉価版未満の存在であるとまざまざと見せつけられてゲンナリしたのだと思う。文才。ああ文才。

 とは言え、久しぶりに本を読み切ることができた。これは相当面白かったということで。

 内容は興味深かった。哲学的要素を含んだものの考え方の話、出来の良いショートショート、くすりと笑えるメモのような短文。

 それが緩やかな波のように積もっていくのが苦しくて心地よかった。

 Twitter(今はXか)やネットニュースのような短い情報を受け取ることに慣れた自分にとっては、短い話がいくつも続く本というのはとっつきやすいタイプの娯楽だったのだと思う。

 新しく同じタイプの本が出たと聞いたので、読了後Amazonで頼んだ。明日にはくるだろうか?また苦しみの日々が始まる。

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