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染井の名水

          
 この四月一日付の単身赴任で京都勤務、他人が聞けば羨ましいような環境かもしれない。しかし五十路も越えて京都営業所長と言えば聞こえは良いが今更単身赴任とはうちの会社もきつい人事をやってのける。製薬業界では上位、東証一部上場企業で管理職には到達したが失ったものも数知れない。あまた乗り越え息子は中小とは言え優良企業の会社員となってくれた。娘も調理師学校に入って自分の道を歩み始めている。妻は保育士として職場復帰して、人手不足の中重宝されているようで京都に付いて来るとは言わなかった。私も新しい環境を楽しみつつも成績を求められもしよう。そんなことを思いながら葉桜の目立ち始めた鴨川沿いに佇む老舗珈琲店の扉をくぐった。
「いらっしゃいませ!」
 快活な声の主は歳の頃なら二十代半ば、メイドをイメージしたと思われる制服に包まれたスラッとしたスタイルにさりげないアシンメトリーショートカット、面長なフェイスラインに切れ長だが柔らかな眼が印象的な女性だった。明るい笑顔で迎えられ身体が軽くなったような心持だ。
「モーニングセットでよろしいですか?お飲み物はいかがなさいますか?」
「あっ、ホットでモーニングを」
 勤務先貸与の2LDKのマンションからは徒歩二分、とりあえずモーニングセットをと思って入った店だがいつの時代にも品の良い女の子もいるのだ。客の求めを一瞬に察知、今時にありがちな「ドリンク」というフレーズではなく「お飲み物」と来た。客の好む対応を無意識に感覚で捉えて対応しているのか?別の客への対応も見てみたくなった。
 若いカッブルの男女が店に入って来た。入り口近くのテーブルに向かい合って座る。男性客の顔しか見えないがいささか疲労の見える表情、機嫌は良さそうなので遅くまで彼女とお楽しみだったのかもしれない。先程の女性店員がお冷やを運びながら注文を取る。
「いらっしゃいませ!ドリンクのメニューはこちらです」
 モーニングセットのメニューは貼り紙に大きく書かれているから示す必要性も無い。
「アイスコーヒーをブラックで」
 と男性。
「私はアイスレティ」
 なるほど、食事に来た可能性は低いと感じたのか?それに若い彼らにはドリンクという単語を使った。お客は結構多いのにホールをほぼ一人で捌いている。一気に興味が湧いてきた。珈琲とサンドイッチも十分な美味で、珈琲好きでもある私としては毎日でも通って観察したくなってしまった。
 
 それからの私は毎朝の目覚めが楽しみで仕方なくなった。彼女のことは珈琲ミキの店の名に因んでミキさんと自分の中で勝手に名付けていた。ミキさんを見習って部下にも笑顔で接する習慣が身に付き営業成績もまずまず右肩上がりだ。ミキさんの非番の日はがっかり感半端ないが彼女の居た空間にその姿を想い浮かべるだけでも幸せな気持ちになれるのは自分でも驚きだった。
 ある日の夕方外回りからの直帰で京都駅の広いバススティションの一角でバスを待っていた。すると何と別のバスを待つスペースにミキさんの姿を見つけたのだ。ボーイッシュな淡いブルーのシャツに明るい紺のジーンズ、軽い茶系のパーカー姿のミキさんの方へ思わず駆け寄り近付くと向こうも気付いたようだった。
 恐るおそる声を掛けようか戸惑う。おそらく私の半分にも満たない年齢のミキさんから見れば私の好意は迷惑でしかないのかもしれない。でも消極的になって後悔するより持ち前の「当たって砕けろ!」だ。昔から「いかなる場合も相手の気持ちを尊重しつつ自分の気持ちに正直であれ」このスタンスで生き抜いてきたではないか。臆病風に吹かれそうな自分を奮い立たせて
「あの、もしかして珈琲ミキにおられる‥」
「あっ、こんにちは」
「僕、分かります?」
「もちろん、毎朝お目にかかっていますもの」
「今からお帰りですか?」
「ええ、今日は一日休みで実家の祖父母に顔を見せに行ってました。普段は夜もバイトしてるから‥」
「そうなんですか。夜はどちらで?いえ、そんなこと聞いたら失礼ですよね、忘れて下さい」
「夜はウッドストックっていう老舗のバーでお勉強がてらに」
「そうなんですか。バーのお仕事を極めてゆこうと思っておられるのですね」
「極めるという程ではないですけどね、フフ」
 瞬間遠くを見つめて夢みる少女のような眼差しを垣間見て私の心は激しく揺さぶられた。振り向きざまに左右非対称なショートカットの髪が揺れる。
「きっと同じ方向ですよね?良かったらタクシーで送りましょうか?仕事上必要に応じてタクシーチケット使えるんです。今日は丁度得意先の帰りなので言い訳も立ちますし」
 もちろんサラリーマンにそのようなことが許されるはずもなく、彼女に余計な気を遣わせないための方便だ。
「お仕事は何を?」
「しがないサラリーマンですよ。製薬会社です。何とこの歳で単身赴任です」
 言わなくて良いようなことまでつい口を突いて出てきてしまう。ふと冷静になると
――やはり迷惑かも‥ただの常連客と二人でタクシーに乗るなど良識ある若い女性ならしないよな‥
 と我に返った瞬間
「いいんですか?助かります。おばあちゃんに沢山お土産持たされちゃったから、エヘ」
 無邪気に笑うとやはり二十代の女の子だ。よく見ると両脇に大きな紙袋が左右二個ずつ置かれている。
「半分持ちましょう」
 と大きめのを二個選んで腕に掛けながら浮かれ気分でミキさんとタクシー乗り場に向かった。
 
 幸い直ぐに乗車出来て行先となる。
「どちらまで?」
 とタクシードライバー。
「珈琲ミキの近くで良かったのかな?僕は店のすぐ近くに住んでいるのだけど」
「ええ、ここからだとお店の少し手前で降ろしてもらえますか?」
「じゃあ葵橋の手前までお願いします」
「ところで良かったらお名前を教えてもらえませんか?僕はこういう者です」
 名刺を差し出す。
「私はみのり、糸原実里です」
「良く知らない相手とタクシー同乗なんて良かったのかな?ってもう乗ってしまってから言うのも変だけど」
「不思議ですね、何か自然でした。人の気持ちってそんなものかもしれないですね」
「僕はこの四月に千葉県から異動で京都に来たばかりなんです。高校生の頃修学旅行で来た以外は仕事で訪れることがある程度でオフィス街以外はほとんど何も分かりません」
「そうなんですね。そうだ!夜はバーでバイトしてるのでその前の時間なら少し京都を案内してもいいですよ」
 惹かれている女性の名前を聴き出せたばかりか一緒に散策しないかという望外な誘いにたじろぎながらも嬉しさが勝ってしまった。
「本気にしちゃいますよ」
「もちろん本気です」
「では京都には何か所か名水と言われる湧き水や井戸水があると聞いています。僕は自分の部屋でも珈琲をミルで挽いて入れて飲むのが好きなんです。是非名水と言われるお水で珈琲を入れてみたいのですが‥」
「それなら丁度良いです。私は時々梨木神社の染井の名水を汲んでバーに持って行きます。お得意様のご希望があってマスターから頼まれるんです。明後日(あさって)の十七時過ぎにミキに来てもらえたら案内しますよ。私はそのままウッドストックへ向かいますけど」
「えっ、本当ですか?お言葉に甘えますよ」
「ええ、喜んでご一緒します」
 この日は実里を彼女のマンションの近くらしき所で降ろしてそのまま別れた。翌日からが益々張りのある生活になりそうなことは十分予感できた。
 
 さて名水に案内してもらえる当日、実里に言われた通り夕方十七時過ぎに珈琲ミキにほど近い交差点で彼女を待つ。少し慌てながら現れた実里は膝上までのカーキ色のカジュアルなワンピースにリュック姿がまた新鮮だ。まだ少し肌寒い五月の夕暮れ時、陽も長くなっていて鴨川の新緑が眩しい。関東に比べると少し低く感じられる京都の空の下、他愛もない話をしながら御所と同志社に挟まれた今出川通を東へ約十分歩くと御所の東縁に沿った小道に差し掛かる。
「実里さんはバーでお勉強と言っておられたけど将来何か考えているのですか?」
 興味を持った女性なだけに立ち入ったことも聴きたくなる。
「ええ、いつかカウンター五席くらいの小さなお店を持ちたいかな?って」
「それは素敵な夢ですね。そのお店、行ってみたいな‥今から予約しておこうかな?」
「フフ」
 小道を五分ほど歩くと梨木神社という由緒ありそうな神社が目の前に現れる。中に入るって少し歩くと「染井の名水」と書かれた立て札がありその向こうに規模の大きな井戸が横たわっている。もっとも実際に水を汲む蛇口は現代だけあって風流とは程遠い水道の蛇口そのものだが‥何でも五リットルまでで百円を支払う決まりの様だ。実里は百円玉を投入箱に投じて持参した二リットル程度のペットボトルに水を汲み始めた。容器が一杯になると次は両手に水を溜めて軽く口を濯いで、そっと吐き出す。再度同じような手の動きをして今度は飲み干した。
「あー、生き返ります!この水での水割りを好むお客様もおられるので私の役割なんです。井戸水を飲んでみます?軟らかい味わいですよ」
 と両手一杯の名水を差し出す実里。躊躇(ためら)っているうちに水はこぼれてしまう。思わず実里の手に口を寄せた。一瞬目が合い見つめ合う二人。
「これは手水(ちょうず)と言って参拝するときの神聖な儀式なんです。本当は片手で水を口に注ぎ濯いでそっと吐き出すらしいですが詳しいしきたりや手順は良く知らなくて‥」
 実里に圧倒されながら私も持ってきた一リットル程度のペットボトルを満杯にした。
「私はこれからウッドストックに向かいます。歩いても二十分程度ですから」
「良かったらその水の入ったリュックは僕が背負って一緒に行きますよ。ウッドストックにも行ってみたいし」
「えっ、いいんですか?助かりますしとっても嬉しいです」
「でも若いあなたが僕みたいな妻帯者のおじさんと一緒に歩いて良いのかな?」
「社会に色々な関係性というものはあるでしょうけど単純にこの人と一緒に歩きたいという気持ちは非難されるようなことなのでしょうか?私はあなたと歩くことを心地良く感じています。今日だけでなくまた来週も一緒に歩けたりすると嬉しいな‥」
「恥ずかしながら単身赴任の自分は原則土日は自宅に帰らないと家庭生活維持の危機となります。でも来週は外回りの日があるのでその日の夕方にこんな風にならまたご一緒出来ますよ」
――実里の心中はどうなんだろう?本当に私に惹かれての言葉と思って良いのだろうか?
 改めて自分の中の恋心に気づく。恋心とは厄介なものだ。独身なら結ばれるエネルギーにもなるのだろうけれど妻帯者には破壊のエネルギーのほうが恐ろしい。しかしこのまま溺れてしまうわけにはいかないと後ろ髪を引かれるかと思えば、堕ちるときは案外簡単に堕ちるのが恋なんだなと変に納得している自分もいる。
 思い切って尋ねてみる。
「付き合っている人はいるのですか?」
「付き合いたいと思う人が現れなければ付き合う必要性もないでしょう。でもあなたのことはなぜか気になります。不思議だけど感じるのです。今まで会った人とは違う何かを」
 あまりに衝撃的な告白に脳内が朦朧とする。いとも容易(たやす)く明日以降の展開を深く考えることを放棄する気持ちになった。今の感情に正直になるしかないと覚悟を決める。大人げなく薄らいでゆく理性の中で実里の妖しいほどに澄んだ瞳が私を見つめていた。
 
 
 

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